大切に育てていた芋虫がサナギになり、深い眠りから覚めて羽化したとき、私は”こんなはずじゃなかった”と思った。

 

私が愛していたのはぶよぶよとだらしない肉つきをした芋虫のイモ子だった。斑点のある緑色の皮膚も、カフカの小説を思わせる億劫そうな体の動きも、よく葉を食べる食いつき具合も、すべてがすべて大好きだった。

 

しかし彼女は唐突に”さなぎ”の形態に入り、硬直し、そして羽化した。虹色の羽を得て美しく風を纏う。それはひどく美しい光景だと、間違いなくそう言えるのに、どうしてかジャムがスコーンにしみわたるように広がる私の諦念のこころ。

 

そうたとえば、コンクリートの照り返しが白く眩しい九月の始まりに、新宿西口改札前で、ずぶ濡れの傘をもったスーツ姿の君とすれ違ったときの絶望にも似ている。

 

 

僕の夢は、もう叶わないのかしれないと思った。

そう気づいた瞬間に、僕は「夢が叶わないかもしれないと思ったときに読む本」という安直なキーワードでGoogle検索した。

愚かなことだ。どうせ何も出来ないくせに、最後には結局僕は本に頼る。どうしようもない愚かさだと思った。

 

アドバイスが必要だった。汎用的ではなく、親しみがあり、僕にカスタマイズされた正しい助言が。欲しいものは分かっていたのに、それを誰に求めればいいのかは分からなかった。

 

とにかくたくさんの本を読み漁った。僕は本に育てられ、本が第三の親のようなものなのだから。

もし明確な答えがたとえなかったとしても、きっと本は、文字は、せめて僕の役には立とうと努力してくれるはずだ。だって、彼らは僕の親なんだから。

 

 

 Personalization(自責化:自分が悪いのだと思うこと)、Pervasiveness(普遍化:あるできごとが人生のすべての側面に影響すると思うこと)、Permanence(永続化:あるできごとの余波がいつまでも続くと思うこと)。

 

 

ざわざわ。

遠くの音がまるで耳の中で鳴り響いているような感覚になる。幸せはどこにもない。この世界の果てまで探しにいったのに、ついぞ見つけることはできなかった。わたしは墨汁を滲ませたようなぼんやりした世界のなかでひとり、極彩絵具を探す旅に出て、そして単調に失敗した。愛はいい。かならず成功する。むろん、交際の申込みや結婚の事情に失敗することはあれど、ただ恋をする、それだけならば、決して間違えることも失策することもありえない。

苦手なことがいくつかあって、たとえば「それって私のことでしょうか」と聞くこと。

 

発言の内容、前後の雰囲気、なんとなく私のことかもしれない、でもあんな暗喩的な言いかたで指摘したりする人かしら。どうしても言いづらくて、気づいて欲しくてああいうふうにしているのかも。ううん難しい。でも、私は「それって私のことでしょうか」と聞くことが苦手なので、聞かない。

でも、対面ではどうしてかやりやすいような気がする。何度かやったことあるよ。「すみません、それって私のことでしょうか?」って。なんなら微笑みながらでも言えた。

 

 *

 

機嫌のわるい人が、わたしが話しかけるときにだけ、機嫌が悪いことは明らかでありながらも、なんとなくおさえてわたしにつとめて優しくしようとする。わたしはそれに気づかないふりをする。どうしてすこしイラついてらっしゃるんですか、なんて無粋なことは聞かない。

 

 *

 

なぜわたしがこれほど祖母のことが気にかかり、忘れがたく思うのか。もちろん祖母を愛しているから、というのがその問題への答えのひとつではあるのだろうけれども、もうひとつ「わたしが祖母を愛していることを、祖母がきっと知らないから」なのではないかということにも思い至った。

先日、友人らと二泊三日で旅行に行った。泊まった宿の女将さんは、祖母にあまりにも似ていた。みかけというよりも、笑い方がまったく同じで、深夜に二時間遅刻してチェックインしたその宿のふるびたカウンターのまえで、わたしは胸を締め付けられるような苦しさを感じた。女将さんはわたしを見て、お疲れになったでしょうと笑い、ほんの少し曲がった腰で階段に向かった。わたしはなにも言わずそのあとをついていった。

ふるい茶色の階段、さすられて滑らかになった木製の手すり、ぷんと香るにおい、すべてがどことなく祖母とつながっているような気がして、わたしは、古いわりには割高なこの宿に決めてよかったと思った。料理の味付けまで似ていた。

植物と少女

ナイメルトはある夜、ひとり海に来ていた。いや、正確には「ひとり」ではない。「ひとり」がなにを表すか、というのは、古くから議論される(特にナイメルトにとっては)難しい問題のひとつだ。精神的に「ひとり」だと思うから「ひとり」なのか。物理的に「ひとり」であるから「ひとり」なのか。しかし、少なくともいま、ナイメルトはそのどちらの意においても「ひとり」ではなかった。彼の傍らには一匹の鳥がいた。肩乗りするほどの、小さく可憐なこの世界でたった一匹きりの小鳥。
 ナイメルト(と、一匹の鳥)は、砂浜を『ふたり』、歩いていた。正確には歩いているナイメルトの肩に、鳥が足をかけていた。鳥はときたま、「そういえば自分には翼があったのだ」という当然のことを思い出して、かるく羽ばたき夜の冷たい空を楽しんでみせた。しかし何度か空中を旋回しただけで、すぐにナイメルトの肩へもどる。翼があったのを思い出したり忘れたりしながら。
 鳥類というのは、絶滅した恐竜族のなかで唯一数万年前の大災害を生き延びた類族である。だから彼らの遺伝子やDNAには、滅びた仲間たちの記憶も刻まれているのではないだろうか、と学者が言ったとき、ナイメルトはそのあまりのロマンチストさにくらくらしたのを覚えている。
「仲間の記憶が何万年も?」
 含み笑いをしながらそう返したら、傍らの男――いや、違う、そんな他人行儀な呼び方をするべきではない――友人、親友、無二の人が、そんなふうに言うな、と笑った。
「そんなふうに言うな。いいじゃないか、失われたDNAが、鳥の体にだけ、何万年もの月日をかけても残っている。今後、人間が絶滅することがあれば、僕たちの記憶も鳥に覚えていてもらおう」
 今更ながら、そんなことを思い出す。
 ああ。
 なにか。
 なにかあった気がする。
 大切な記憶。幸せな記憶。それを探し求めて彼は海を「ひとり」歩く。いまは、ナイメルトは、「ひとり」だ。なにかを思い出そうとするとき、人はいつだってどこだって、どんな場面においても「ひとり」だ。
 彼は、彼の知る詩を朗読する。ある劇作の主人公の騎士の台詞を朗々と口にする。鳥と笑う。
 だんだんと、思い出す。
 自分が何者であったかを。
  
  
   ***
  
 うみ。
  
 月の満ち引きが、波をかき混ぜる。あんなに遠いところからも、月の引力は届くのだ。そうして地球の表面で最もうつろいやすい物質である海水が、月に引かれて浮き上がる。波が起こる。この塩辛い水たちは、かき混ぜられてプランクトンのゆりかごとなり、ヤドカリを砂浜に戻し、人が放つボトルレターを大陸のこちらからあちらへ送る。
引力は無限超まで届く。宇宙の果てにいっても、どれほど小さくとも、月の引力は届くのだ。月はどこからでも手招きをしている。
 なぜ月の満ち引きに関係して、自分の記憶が戻ったり消えたりするのか、ナイメルトには分からなかった。ひょっとするとその理由や仕組みを自分は知っていたのかもしれないけれど、覚えていたくなかったから「なかったこと」にしてしまったのかもしれない。記憶だけを消したり、現象そのものを消したり、因果を離れ離れにしたり、できることが多すぎて、たまに何がどうなっているのか分からなくなることがある。原因と結果というのは一本の線でつながっているべきものなのに、その糸をばっさりと切り落としてしまえる自分のこの能力は、あとから見たときどうにも取返しがつかない。
  
 なみ。
  
 月の引力に導かれ、盛り上がった波たちが、いま、満潮だ。寄せてはひいて波を砕き、白い宝石をその水際に躍らせる。ひどく小さな津波を自分は見ているのだ。「見ている」。「見ている」……。
 そして、腕を見つけた。
 腕は青白く、五本の指をもって、ゆらゆらと、月にさよならするように、手を振っていた。腕からその先は、綺麗に海のなかにおさまっている。変わった形の流木だろうか?
 いやしかし、ただの木が、あんな風に天を向いて動くはずがない。生き物だ。あれは、生き物。腕以外は海のなかへ漬かっている、生き物。
 腕は手降りを繰り返していた。それは、月へ、星々へ、そしてナイメルトにたいしても別れを惜しんでいるように見えた。ひょっとして、やはり、人だろうか。血の気が引いてゆく。その、身体が迅速に冷えていく速度で、片腕も消えていく。月の影のなかへ。
「うで」
 気付くと、傍らに少女がいた。これは生き物だろうか。人形のようにも見える。しかし彼女はいままさに、確実に、うで、と言った。うで。腕。
「わたしの、うで」
 少女の目がこちらを見た。それは紛れもなく人間の瞳だと思い、ナイメルトは瞬間、入水した。水しぶきがあがり、衣服はすぐに重たくなる。鳥は肩を離れ、月影の上を目指す。こんな夜に一人で夜の海に入るのは自殺行為に等しい、と自分で分かってはいたけれど、このナイメルトがその程度で死ぬはずもない。
 満潮の時はすでに過ぎ、引き潮が始まっている。いまが一番、海水が多い。月に引っ張られて、海水たちは海の果てへ戻るのだ。そしてまた一月をかけて、この浜に戻ってくる。
 強力な引力を感じる。月の満ち欠けを、潮の満ち引きを、ナイメルトはこれ以上ないぐらい日々の生活で感じているはずだった。しかし、物理的に身体を波に持っていかれているいま、月の恐ろしさが、引力の惹きあいの強さが、ひどく身に染みる。
 鳥を目印に、月影にたどりつく。影のなかへ潜ると、泡が吹きこぼれ、息が苦しくなった。肺の酸素がたりなくなって、いちど海面へ出る。またもう一度潜り、苦しさを覚え、浮上して、潜り――その繰り返しを、何度も行った。
 黒い夜の海のなか、腕はどこにも見当たらなかった。
 彼女の腕は、故障したビスク人形のように、肘のあたりからポッキリと折れていた。
その折れ方には、おおよそ人間らしさが感じられなかった。かといって、物が壊れた、という風でもない。彼女の腕は確実に生きている腕だった。作りものなんかではなかった。
「うでは?」
「なかった」
 少女にそう答えてから、外套を脱ぐ。少しぐらい軽装になってから泳げばよかった。自分でなかったら確実に死んでいる。
「寒くないか」
 少女がたった一枚の白いワンピースしか着ていないのを見て、ナイメルトはそう声をかけた。まあ、寒いと言われても何も渡せるものはないのだけれど。
「さむくない」
「そうか」
 確かに、鳥肌ひとつたっていなかった。肌の色もなめらかで、血色わるい感じもしない。よく見ると、そもそも濡れてすらいない。腕だけが波にさらわれてしまったのだろうか。
「わたしなら大丈夫」
 そう話す声も、震えていない。驚異的なことだが、たしかに寒さは感じていないようだ。しかし目はまったく合わせてくれないので、どうやらひどく警戒されているようだとは分かる。
 しかし、腕をなくした状態のまま、ここにい続けられてもしょうがない。
「そうは見えないな。暖かいところへ行こう、部屋を用意する」
「どこへ?」
「ああ、ホテルがある。『ピエトロ・ファンタジア』……」
  
 いや。いや、いや、いや。
  
 そんなところをしたところで、この少女の不信感をあおるだけなのでは?
ちらりと、横目で少女の表情を伺う。しかし、なんというか表情筋のようなものが圧倒的に不足している顔で、何を考えているかさっぱり分からなかった。
 ……昼間の自分なら、きっと気にしないだろうな、と思う。
 強引に連れ出し、 彼女を風呂に入れてやるぐらいはするかもしれない。好意のおしつけ。
「おまえならどうする?」
 ふと、「ひとり」ではなかったことを思い出し鳥にそう聞いたが、答えはなかった。ただ、ぴぃと鳴くような素振りを見せただけ。それは言葉ではない。意思の疎通は、どうにも図れそうにない。
 ……引き潮だ。満潮の時間は終わった。
「だれと話しているの?」
「鳥」
 そう答えると、彼女がようやくナイメルトの顔を見た。おかしな人だと思われたのかもしれない。
「寒くなくとも、腕は痛いだろう。魔術士のところへ連れてゆこう」
 少女の手を取る。彼女の手が、林檎がもがれるようにちぎれているのが、どうにも痛ましかった。血液はないし、血管も見えない。それどころかそもそも断面は肉には見えなかった。ちょうど――そうだ。芍薬や牡丹の茎を、中間からぽっきりと折ってしまったときに垣間見える、白い白い断面の繊維に、ようく似ている。
「いいえ」
「いいえ、って?」
「痛くないの」
「そんなはずはない」
「そうなの」
 彼女は困惑するように繰り返した。本当に痛くないらしい。
「わたし、植物だから。痛覚はないの」
「植物?」
 オウム返しにそう言って、彼女の身体をうえから下まですべて眺める。
 当然、どこにも枝は生えていないし、葉緑体もない。全身すべてうっすらと薄い肌色で、ミトコンドリアが入る余地はないように見えた。
 しかし、植物なのか。
「もしかして、鳥が好きなのか」
「ええ、すごく好き。でももう撫でられないわね」
「いや、大丈夫だ」
「腕はもうないの。あの海のどこかに沈んでいるとおもう」
「大丈夫だ。僕が『見』なかったことにする」
「あなたが見なくても世界が見ているわ」
「いや……私が見なければ、なかったことになるんだ」
 言ったところで、信用してもらえるとも思えなかった。
 街に初めて来たときも、周りを説得させるのにそこそこ時間が必要だったことを思い出す。まあ、この街の住人はそんな細かいことにこだわらないやつばかりだったが。
「たった一日でいいから、時間をくれないか。どのみち君だってこのままじゃ困るだろう」
「たすけてくれるの?」
「ああ、完全に」
 原因と結果。つながった糸を解放する。因果律を壊す。そんな自分の能力があれば、完全に、彼女を修復させられる。
「たった二十四時間、僕にくれ」
 何故こんなにも感情が揺さぶれるのか、よく思い出せない。満潮が過ぎたから、記憶がまた少しずつ失われ始めているのだろうか?
「……その子、お友達なのね」
 少女が鳥に手を伸ばす。ピィちゃんは喜ぶように鳴いて、少女の腕の切り口に止まり木した。
  
 ぷかぷかと浮かぶ、白い腕。
 僕のことを誘っているように見えた、青白い手まねき。
  
    ***
  
 邸宅に戻り次第すぐに、ナイメルトは植物図鑑を開いた。
 青く分厚い背表紙をもつその図鑑には、むろん、人型の植物に関する記載なんてどこにもなかったが、多少は役に立つ情報も得られた。
 まずひとつ。
 彼女は区分のなかではC3植物に属する。高温には弱いから、どこか冷えた場所においたほうがいい。
「トカゲって変温動物だったよな」
「……今日来るなんて、珍しいじゃないか」
 大きなしっぽをぐんねりと揺らし、ベルは鼻を鳴らした。工房のなかは、少々油のにおいがきつすぎるような気がするものの、おおむね冷えている。
 よし、ここなら問題ないだろう。
「僕はいつだって好きなときにここにくるさ」
 とりあえず二十四時間を過ごせる寝床を作ろうと、適当な空間にあるガラクタを片づけていく。勝手に物に手を付けても、ベルは文句を言わなかった。
「いいや、絶対に来ない日があるだろう。女みたいに」
「どういうことかな、こんな筋肉隆々の男を前にしてさ」
「だっておまえさん、毎月二回、顔を出さない夜があるだろう。随分健康的な生理サイクルだ」
「……気付いてたのか」
 聡明なことだ。
 一点、穴がある推理だけれど。
「人間の女の生理は月に一回なんだぞ」
「そうなのか?」
 トカゲは月に二回なんだろうか? 確かめる気はないが――と思ったところで、自分の愚かさに呻く。トカゲは卵生だ。生理なんてない。
「最初は満月の夜かな、と思ったんだが、新月の夜にもいないな、と思ってな」
「おっさんは随分暇なんだな」
「こないだ発明しようとしたのが月の満ち引きに関わるアレなんだよ。それで月齢の暦とにらめっこしてたらたまたま気付いた」
 ベルは満足したようにそう話す。ただ、気づいたことをべらべらと話してみたかっただけらしい。
「そう、おれは生き物は専門じゃない。発明家だからな」
 ベルはそう言って、扉の向こうの少女を一瞥する。悪い男ではないが、面倒見が特段良いというわけじゃない。突然押し付けられては困る、と顔がはっきり主張していた。
 しかし、ここでなくては困るのだ。
「でも、うちのホテルにはおけないからさ」
「人間を置けないホテルなんてものがどこにある?」
「人間じゃない。植物なんだ」
 ベルはようやく、少し驚いたように眉を上げた。
「……人型か」
「僕も初めて見た。腕の切り口を見てくれ。とりあえず血管がないことはすぐに分かるよ」
「血管も脳も心臓もない動物だって、いることにはいるぞ。海鼠とか」
「冗談だろう? まだ植物だといわれたほうが納得できる」
 少女は見るからに、人にしか見えない。二つの眼球を持ち、髪の毛はさらさらと風に流れ、肌は陶器のように白い。眼球も鼻も唇も爪も、何一つ欠けず持っていて、どこから見ても人としか思えない。
 ――ただ、腕だけが、ないけれど。
 少女は両の瞳を閉じる。ようやく降り注ぎ始めたさんさんとした太陽光で、体いっぱいを照らされてゆく。まるでシャワーを浴びるように腕を広げるものだから、浴室を覗いているような気持ちになって、ナイメルトは視線を外した。
「……いや、たしかに、ありゃあ植物だな。あそこまで柔軟に動けるとは」
「二十四時間だけだ。腕を直してやりたい」
「腕はどこへ?」
「うみ」
 そうか、とベルはそれ以上何も聞かなかった。
「冷えた場所が必要なんだ。人間には寒すぎるぐらいの」
「……たいしたことはできないぞ」
 置いてくれるだけでいい。もう一度そう伝えれば、ベルは一つだけ溜息をこぼして、寝床作りの手伝いに手を貸してくれた。といっても転がっていたねじを一本、どこか遠くの方に放り投げただけだが。
 許可も取れたし場所も作れたし、だいたいこんなものでいいだろう、と判断して、扉の前にいる少女を呼び寄せる。少し薄暗い室内におずおずと足を進める彼女の手を引いて、ベルを紹介した。
「こちらベルおじさん。二十四時間、きみが滞在するこの場所の家主だ」
「どうも」
 少女は目を丸くしてベルの顔を見、胸を見、そして尻尾を見た。
「……よろしくおねがいします」
 少女はやけに喜ばしそうに、花咲くような春らしさで微笑んだ。きっと赤血球はないのだろうが、なんだか頬が染まっているような気さえする。
 ――やっぱりな。
 おそらく、ベルがトカゲ(たぶんトカゲ)のしっぽを持っているからだろう。
 彼女は人間の女性の体を持ってはいるが、自認しているのは「植物としての自分」だ。たぶん、人間よりも人間以外の動物、動物よりも植物のほうに好感を覚えるはず。
 その観点でいくと、この街にいる生きもののなかで、彼女を傷つける意思がなく、かつ人から最も遠い見た目をしているのは、この男だ。
 ……といった事情の一端を察してくれたのかどうかは分からないが、ベルは「はあ」とため息に似たなにかを、した。とりあえず滞在を認めてくれるようだ。
「……ここはまだ少し暑いかもな。きみにはもう少し冷えた部屋のほうがいいか?」
 やつがひそかに可愛がっている仙次郎と年のころが似ていることも、プラスに働いたのかもしれない。
「はい。ありがとうございます!」
 少女が、ベルの尻尾をぎゅっと握る。
 嫌がるかな、とベルの顔を見たが、喜ぶわけでも嫌がるわけでもなく、ただ頭をぽりぽりと掻いているだけだった。ふーん、怒らないのか。まあ、彼が怒ったところなんて見たことないけれど。
「何か服とか、タオルを持ってくるよ。一日とはいえ色々入り用だろう」
 そう言えば、少女はきょとんとした顔で首を傾げた。
 ……いらないかもしれない。
 まあ、いい。長い長い植物の命のなかで、たった二十四時間ぐらい、人らしく生きることがあったっていいだろう。朝食を取ったり、風呂に入ったり、本を読んだり歯磨きしたり、顔を洗ったりトランプしたり。そんなようなこと。
 幸いなことに、ピエトロ・ファンタジアには、朝食もバスタオルも歯ブラシもトランプもベッドサイドの聖書の本も、全部ある。
  
  ***
  
 突然連れてきた少女をそのままに、ナイメルトはホテルへととんぼ返りしていった。
 彼は宿屋だ。
 ホテル『ピエトロ・ファンタジア』は、旅人の仮宿から、町住人の情事の場としてまで、幅広く使われるような場所で、刺々しいネオンの光が特徴的だった。
 形だけは城の形状を保つ、しかし威厳や文化や権力といった、本来『城』というシンボルアイコンが示すべき一切の力を持たない。
 夜の静寂のなか、音もなく蛍光色をまき散らす居城。
 ナイメルトがいったい何に執着し、何を忘却し、何を取り戻そうとしてこんなハリボテを建てたのか――その答えはおそらく誰も知らないし、ついでにいうなら興味も持てなかった。
 あまり多くの考えごとは抱えていられない。
 まずはこの植物を、より彼女にとって快適な場所へ、移動させなくてはならない。
 到着したときには暗くて気付かなかったけれど、朝日が昇った今ならわかる。腕の切り先からは繊維のささくれのようなものが不均等に抜き出ていて、いかにも『千切れて』いる。いっそプールに沈めて挿し木にしたほうがいいのでは、と提案したくなるほど、
 彼女の腕の断面は「枝」に似ていた。
 こんな切り口じゃ酸化してしぼんでしまうんじゃないだろうか。
 二十四時間後にはナイメルトの力で修繕されるにしても、いまこの子が痛がっていないのだとしても、やはり痛々しいと思った。
「なあ、ここは臭くないか。温度も高いし、過ごしづらいだろう」
「……なに?」
 少女はがらくたを物色していた手をとめて、まんまるとした瞳を見開いた。
 やはり、見てくれはどうあってもただの人間に見える。しかしよくよくその細部を観察すれば、たしかに植物なのかもしれない、と思える証左があった。
 たとえば髪の毛。毛というのは皮膚の表面上から、死んだ細胞が少しずつ伸超して形作られるものだ。皮膚はそもそもメッシュ状に折り重なった表皮で形作られるものであるから、従って毛穴というのも基本的にはまばらに群生している。穴が多いところもあれば、少ないところもある。毛の生え方だって、ひとつひとつ本当は違う。遠目にみれば束になってしまうから、粗が目立たないだけだ。
 しかし、少女の髪(というか、毛髪のように見えるもの)は、絵画のように均質的だった。まるで天頭にある一つの穴から、大きな大輪が花開いたかのように、左右前後に完全なるシンメトリーを構築している。胸のあたりまで伸びたセミロングの髪の毛は、特注の印刷機でプリントしたように滑らかな薄色のグラデーションを描いていた。純潔の白から、薄い桃色に。ひょっとするとこれは死んだ細胞なんかではなく、彼女にとっては花弁にあたるのかもしれない、と思った。花はもっとも目立つように、場所を選んで咲くものだ。頭上はまさにとっておきのステージだろう。
「ここ、臭いの?」
 少女がくんくんと鼻を鳴らすような動きを見せた。もはやベルは慣れてしまっているが、基本的にここは油臭いはずだ。特に昨日は夜遅くまで機械に油を指していたから、そこらじゅうから鈍い鉄の香りがする。そのはずだ。
「……ひょっとして、匂いは感じないのか」
 眼球があり立って歩き言葉を話し尻尾まで触ってくるところを見ると、視覚、聴覚、触覚は人並みにありそうだ。しかし痛覚がないなら、嗅覚もないのかもしれない。
「なにも」
 少女はベルの瞳を見上げて、首をただ横に振ってみせた。
 皮肉なことだ、と言えるかもしれない。少女からは――いや、皮肉もなにも、ある種当然の話だが――花の香りがしていた。ふんわりと春の気配が感じられる。
 しかし、彼女はその香りを知らない。
「そうか、いや、どうだっていいことを聞いたな。しかし、油は君の傷口にもよくない」
 こちらへ、と道を示しながら、ベルは階段を上がる。次いで、背後からとんとんと軽い足音が付いてきた。
 二階にあがり、自室を通り過ぎる。空調を守るために気密性を高くした大きな扉を押し開いて、彼女をその部屋の中に入れた。
 ……ここなら、差し木になっても寂しくないかもしれない。
 ベルが少女を案内したのは、花屋と見紛うほどに大量の花が咲き誇る、小さな一室だった。
 毎日見ている風景。しかし扉を開くたびに、見事な花だ、と思う。白く、これ以上ないほど白く、半透明に透き通り、日をかざせば蝶の羽根のように輝く、美しい花弁。中央にそっと添えられた雌蕊が少女を歓迎するかのように揺れた――そんな風に見えた。
 少女も、同胞の集まるこの部屋を大いに気に入ったようで、寝転がったりお気に入りの一輪を覗き込んだりしながら、出会ったときとは打って変わって表情豊かにしている。
 よかった、と思った。別段何かの心配事があったわけではないが、水槽のなかで初めて二匹の魚を引き合わせるとき、散歩の途中で犬と犬とがすれ違うとき、やはり飼い主側はなんとなく心がざわついてしまうものだ。しかし、仲良くしてくれている――良かった。
「きみの名前はなんというんだ?」
「……なまえ?」
「ないのか?」
 少女は一つの壺にかけより、一輪の花を示してみせる。
「この花、名前なに?」
 ああ、そうか。とベルは嘆息した。
「そうだな。一輪一輪の花に名前などない。種族として、名前や通称や学名や花言葉を持っていても、一輪一輪固有の名前なんてない。君も、この子たちも」
「……名前がないとおかしい?」
「いや、そんなことはない。俺は名前が長くて大変なくらいだ」
「なんていうの?」
「ここで全部は言えないぐらいに。でも、ベル、と呼んでくれ」
「わかった」
 少女は頷いた。そして花が開くように、蝶が飛び立つような軽やかさで、わらった。
「わたし、ここが好き」
「ああ、そうか。よかった」
 ここが植物にとって、そういうふうに言ってもらえる場所である、ということが分かっただけで、ベルにとっては十分だった。
  
  ***
  
 ……人間とトカゲで、そんなに、違うものか……。
 ホテルから戻って一番にナイメルトが感じたのは、劣等感だった。
自慢ではない(自慢ではない)が、ナイメルトは女性に嫌われることは、少ない。精神的もしくは言語的な交流を通したのち、「もう少ししっかりした性格になれ」と言われることは、なくはない。なくはないがしかし、初見で弾かれることは生まれてから今までの間でほぼ皆無だ。
 すこし筋肉質すぎるきらいはあるものの、基本的に「男性」として周囲から求められるべき要素は満たせている。
 高さのある体躯、剣を持てば俊敏に動く筋肉、幅広の肩と背、女性よりも太さのある腕に、低く甘さすらある声。顔そのものも、言ってはなんだが基本的には好感を与えるものだ。
 しかし植物に対しては効かないようだなと、警戒を少しも解いてくれない少女を見て、思う。
 扉をがらりと開けた瞬間、確実に一度目が合ったはずなのに、すぐに視線が外れてしまった。嫌われているのか恐れられているのか、あの表現幅の短い表情では読み取れない。
 かたやベルはというと、彼は当然、愛想がいいわけでもないのだが、少女は随分懐いたようで、何が楽しいのかひたすらにずっと、尻尾を追いかけまわしている。ナイメルトがベルの家を離れたのはほんの二時間ほどのことだったのに、この短い間にいったいどれほどのドラマがあったのだろう。まるで植物というよりも犬か何かのようだ、とナイメルトは心内苦笑した。
 まあ、私が好かれる必要などどこにもない。二十四時間後、ナイメルトを二秒ほど信じて空っぽの腕を預けてくれれば、それで用は足りるし、十分だ。
「包帯やガーゼを持ってきた。意味があるかどうかは分からないが、空気にそのまま晒すよりはマシだろう」
 ベルは頷いて、ナイメルトから受け取ったガーゼを少女の切り口にあててやった。テープで張り付け、霧吹きで水分を与えてやる。このまま飾り紙で包んでリボンをかければ花束になりそうだな、と不謹慎なことをナイメルトは考えた。
 処理の終わった腕を不思議そうに見つめながら、少女が言う。
「うえにいっていい?」
「いや、外に行こう。ナイメルトはピクニックがしたくてたまらないらしい」
「上にいたのか?」
「まあ。帽子はあるか」
「ああ、持ってきている。朝食に、水筒、帽子にタオルに……」
 油くさいテーブルのうえに一つ一つ、持ってきたものを並べていく。トランプ、双六、レジャーシート、聖書、詩集、童話、そして朝食に、昼食に、三時のおやつ。煮出しのアイスティーにお手拭きをみっつ。念のため、ウェットティッシュも箱入りで。
 なんだか笑ってしまった。遠足に行くのにあれもこれも持っていきたくなってしまった子供みたいだ。そうとうな量で、重さもかなりある。子供なら諦めるだろうが、ナイメルトの場合なまじ全て持って来れる体力があるのだからばつが悪い。
 苦笑をおさえ、とりあえず、とナイメルトはベルと少女に提案した。
「朝食を取ろう」
 
食べられないだろうな、と思いながら持ってきたが、意外にも少女はスプーンを使って器用にスープを飲んでみせた。水ものしか受け付けないだろうかと心配していたが、固形のサンドイッチもしっかり食べている。これが食べられなかったら、あれが飲めなかったら、とずいぶん色々用意してきたが、結局ベーシックな朝食セットで問題なかったようだ。この分なら、デザートのバナナとフルーツポンチまですべて平らげてくれそうだった。
「ずいぶんボリュームがあるな」
 バナナを数本食して満足したらしいベルが、熱いコーヒーを淹れながら、彼にしては珍しく半ばからかうようにそう言った。まあ、自分でも可笑しいとは思う。
 その揶揄に返事をするのが嫌で、ナイメルトは、しっしと追い払うように手のひらを振った。
「湯気があたるだろ」
「当たらない。過保護」
 実際当たらない距離だった。当たったところでナイメルトは勿論、少女にも何の問題もないはずだが、それでもベルは少し気にしたようにコーヒーカップを遠ざけた。目線が絡む。我々は、過保護だ。
 誤魔化すように、ナイメルトは意図的に咳をして、少女に言った。
「海に行こうと思うんだ」
「うみ?」
「昨日、君と会ったところだ。水がたくさんある」
「どうして行くの?」
「ピクニックだ。人間はそういうことをする」
「わかった」
 雑な説明に、少女は従順に頷いた。
  
 すでに大潮の時間は過ぎ、引き潮が始まっていた。潮騒はどうしてか、夜のほうが大きくなって響く。まだ太陽の支配下にあるこの時間、波の音は控えめで、謙遜を知っているようだった。
 特にすることはなかった。貝を探したり砂の城を作ったりと、だれでも一度はやったことがあるような遊びをして、しばらく時間をつぶした。まず城壁から作り始めたナイメルトの行動を、少女は不思議そうに見つめていたが、全体像を教えてやると喜んで砂の煉瓦を作り始めた。数時間が経ったころ、城の建築作業は大詰めに入っていた。
「橋はひとつがいい。攻めづらくなる」
「逆に言うと、逃げ道がなくなるんじゃないのか」
 ベルの提言に、いや、とナイメルトは首を振る。
「逃げなければならない、となった時には、竜でもなんでも使って空から行くべきだ。あとは、城の上から滑空すれば、なんとか裏手につけるようにしておく、とか。とにかく城というのは守るためにある。出ることはできても、入ることはできない。そういうふうにしておくんだ」
 ふうん、と呟きながら、ベルが爪を立てる。最初のころ、彼はまったく手伝わずに空をぼうっと見詰めていたが、壁が完成した後は、その鱗を柔らかく砂壁に押し付けて、それなりの装飾をしてくれた。ひょっとすると最初のころは参加しようにも、あの手では砂を固めることは出来なかったのかもしれないな、とナイメルトは少しだけ悪く思った。
「堀は重要だ。返しもつけておかないとな、入れないように」
「手が込んでいるな……」
「城というのは、それ本体よりも、周囲の堀や壁のほうが大事だ。まず入らせない――その次に、入られたときの対策を考える」
「ここに木を植えたのは?」
 少女が、ナイメルトが挿した枯れ枝を指さす。ああ、とナイメルトはわらった。
「それは、君主のためのものだ。もちろん、攻められないようにすることが第一だが、城というのはほかならぬ主の家でもある。庭には木があったほうがいいだろう?」
「花も?」
「そうだな。花壇を作るか」
 頷いて、ナイメルトは小石を探した。さすがに砂を固めて作ることはできない。葉や、石や、貝や、そういった素材も使ったほうがいい。
 途中、休憩したり昼食を取ったり、ババ抜きをしたり、トランプのカードを一枚なくしてしまったりしながら、日暮れまでにはすっかり巨大な城が出来上がった。満足して、ナイメルトは城をながめた。それはどこかで見たことがある城のような気がしたし、もしくはこの世界のどこにもないナイメルトの理想の城のような気もした。
  
 ぱらり、と一粒、本を読むナイメルトの大きな手に滴が落ちた。
 まずい、と天を仰ぐ。狐の嫁入りだ。まったく雲がないのに、どうしてか糸を巻いたような小雨が降っていた。
「ベル、激しくならないうちに帰ろう」
 そう呟いて、道具を片づける。ぱらぱらと撒かれるようだった小雨は、みるみる粒を大きくしてゆく。
 傘も持ってくるんだったな、と思う。こんなに大荷物を用意したのに、足りないものが出てくるとは。
 しかたなく上着を脱いで、少女を探す。あの傷に、雨はよくない。
 ――そう、思った。
 しかし、ナイメルトは少女の姿を認めた瞬間、自身の不明を恥じた。まったく、何も分かっていなかった。
 踊るように、歌うように、少女はくるくると回っていた。口元は間違いなく微笑んでいて、スキップでも始めそうな足取りで、軽やかに、彼女は踊っていた。ナイメルトは上着を落とす。
 植物にとって、当然に、雨は恵みだ。
 あたりまえのことなのに、忘れていた。雨を避けるのは、きっと動物だけなのだろう。できるだけ水分を取りたい、と叫ぶように、彼女は両腕をめいっぱいひろげて、雨と対峙していた。
 その様子をナイメルトはしばらく見つめていたが、暗雲が近づき肌寒くなったころ、ようやくにして少女に声をかけた。
「そろそろ帰っておいで」
「どうして?」
「傷口が雨に痛むだろう」
 少女は気にするように、ガーゼで封じられた腕を見る。そしてまた、わかった、と呟いた。
  
 家に戻り、タオルで拭いてやろうと少女を呼んだ。しかし、身体のどこにも水滴はなかった。
「乾いたのか?」
「ここは濡れてるかも」
 少女がぺろんとはがすように、髪を一束取って裏返した。確かに、濡れている。ほんの少しだが。
 これならバスタオルは必要ない。机に戻り、ハンドタオルを引っ張り出して、少女に手渡した。
「これで拭いて」
「ありがとう」
 手持無沙汰になったバスタオルのほうを、ベルに渡した。
「どうも」
「ああ」
 窓の外は酷い天気に変わっていた。あの城はどうなっただろうか。結構な力作だったので、あのまま水に崩れ散ると思うと、少し忍びないような心地がする。
 次いで、雷まで鳴り始めた。
 ――予報は晴れだったのに。
 今日はもう家の外には出られないな、と思う。いつのまにか戻ってきていたピィちゃんが家のなかにしっかり入っていることを確認して、ドアを閉めた。
 さて、と二人を見る。
「本でもどうかな」
 声掛けすると、少女は困ったように首を傾げた。
「読めないかな」
「読んでやればいいだろう」
 ベルが本をいくつか手に取り、ぺらぺらと捲る。
「聖書にしよう。『悔い改めよ、天国は近づいた』」
「おい、なんで途中から始めるんだ」
「家系の説明から始まるのは難しすぎると常々思っていたんだ」
「だめだ、図鑑にしよう。ほら、これはどう?」
 動物図鑑を出すと、少女は興味深そうにページを覗き込んだ。ライオンのページだ。しかし、すぐに少女がページを捲る。
「それは顎口動物だ」
 正体不明な写真を指差し、ベルが解説を始めた。
「これは」
「なにかマークがついているな。ああ、絶滅した生き物なのか。いまから四百年前まで生きていたらしい」
 絶滅。四百年前。
「なあ、恐竜って、どのぐらい前まで生きていた?」
「大昔のことだ。少なくとも、四百年前にはいなかったさ」
「ふうん……」
 鳥。恐竜。記憶の全て。絶滅。
 なにかを思い出せそうで、思い出せない。もやがかかったまま、時間だけが進んでいく。そうだ、残り二十四時間。いや……もう……。
 雨が時計代わりに、音を刻んで、時間を勧めていく。そうして一刻、一刻と、二十四時間が過ぎる。
  
  ***
  
 思っていたよりも、その時間はすぐに来た。少女にはすっかり語彙が増えて、流暢にしゃべるようになっていた。早めに本を与えればよかった、とナイメルトは後悔した。
「うん、ぴったり時間が経ったな」
「時間が経ったらどうなるの? 何をするの?」
 少女が出会ったころよりも明瞭に言葉を紡ぐのを、ナイメルトはぼうっと聞いていた。
「……さあ、なかったことにしよう」
 ナイメルトは少女の傍らに膝をつき、その腕を取った。切り口はほんの少ししぼんでいるようにも見えた。
「なかったこと?」
「ああ。君の腕は戻る」
 二十四時間前とまったく同じように。
「そうしたらわたし、故郷に帰れる?」
 どうやって、と聞きたかった。故郷。そうか、この少女にも帰る場所がどこかにあるのだ。遠い場所。どこか。
「帰ってしまうのか? さみしいね」
「帰らなくてはらないわ」
 たしかに、故郷とはそういうものだ。帰る、帰らない、ではなくて、帰らなくてはならない。必ずその場所に戻らなければならない。
「ああ、そのとおりだ。君は帰らなくてはならない」
 ベルが、ナイメルトを促すようにそう言った。ああ、分かっている。なににせよすぐに直す。惜しんだりしない。
 手を、目の前にかざす。
「わたしはなにも――……」
 なにも。あの広がる花びら。砂浜を駆けるやわらかい枝脚と、竜のような尻尾。一人と一匹と一輪とで作った巨大な砂の城。聖書の言葉。もうすでに地球にいない動物の生態。僕をさそう、白いうで。
「見ていない」
 かぜがふく。
 瞬間、亀の甲羅から頭が出てくるように、白い枝木がにょきりと突き出た。たった二十四時間前、僕を海へ誘った、たおやかな細い指。
 ――しっかりと、ついている。
 少女はなんどか瞬きをして、ためらうように腕を動かしてみせた。ちゃんと、くっついている。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「わたし、故郷に帰らなくちゃ」
「そうか、もう行くんだね」
 腕があれば、戻れるのだろうか。その細い足で戻るのか。海を渡るのか、船で旅をするのか。ほんとうに出来るのか、と確かめたくなる。
「また腕を失ったら困るだろう。出来るだけ早いほうがいい」
 ベルがそう言って、扉を開いた。雨は上がっていた。先ほどまでの激しい降雨で洗われた空は、いつもよりも透き通って見えた。
「良い旅立ちの夜だ」
 ベルがそう言った瞬間、ナイメルトはどうしようもなく寂しくなった。たった一日しか時間を共にしなかったこの少女に、思い入れなどできるわけもないのに、どうしてなのだろう、と思う。
 気づけば、一日しばらく離れていたピィちゃんが肩に止まっていた。僕は、誰かの夢を、この植物の少女のなかに見ている。この子ではない誰かを。
ナイメルトは、最後に、と少女に声をかけた。
「君の名前を知らないな」
「……名前なんてないわ。花が一輪一輪、別の名前を持ったりしないように」
「それでも種族の名前はあるだろう。なんという?」
 ベルの問いかけに、少女は大きく頷いた。そして、
アネモネ
 はっと、ナイメルトは息を飲んだ。彼女は、ナイメルトの知るどんな花とも違っていた。もちろん、アネモネとも。
 しかし、彼女自身がアネモネだと言うのなら、そうなのだろう。
アネモネなら知っている。美しい花だ」
「ありがとう。いつかわたしの種が、ここまで届きますように」
 そう言って、彼女は風に揺られるように軽やかなステップで、扉をするりと抜けるように出た。すぐにその後に続く。ナイメルトとベルがそろって家の外に出たとき、少女はすでに宙に浮いていた。両腕を伸ばし、花弁を開き、まるでたんぽぽの綿毛が風に乗るようにやわらかに、ふんわりと風を受けて空へ。北へ。
「………………」
 少女へなにか言おうとして、けっきょくナイメルトはなにも言わなかった。それはベルも同じらしかった。少女の影が、あるいは幻影が、一点になって空の向こうへ消えて、気配がまったくなくなり、少女が吸った息の粒子すらもうどこにも残っていないのではと思うほど長い時間が経ってから、ナイメルトは家のなかに戻った。そして彼の親友が、ピィ、と鳴いた。
  
  ***
 
「ベル」
 なりゆきで、そのままナイメルトはベルの家に泊まった。泊まった、というか、空いていた椅子に朝まで座っていただけだけれど。
「なんだ」
「どうして、彼女の面倒をみてくれたんだ?」ベルは長い尾を重々しくしならせ、所在無さげに身体を揺らしてから、ナイメルトを見た。
「……秘密だぞ」
「秘密?」
 秘密、というのはおそらく嘘なんだろう。ベルは秘密の多そうなやつだとは思うが、その秘密を口に出さない。――構造的に、『秘密を口にすることができない』自分と違って、ベルはきちんと自分の意思で、『秘密を口にしないことができる』のだろう。知らないけど。おそらく。
「俺はな」
「きみは?」
「植物には、甘い」
「ええ?」
 冗談かと思ったが、ベルの横顔は真剣そのものだった。
「……あっけなかったな。そう思わなかった?」
「植物は自生地にいるのがいちばんいい」
「そういうもの?」
「自生地で根をはり、そこで生き、少しずつ生きられる環境を、何代にもわたって開拓していく。それが植物の生き方で、性質で、矜持でもある。自生地であればそこは攻略済みの場所だ。人や俺たちにとってどれほど過酷な環境に見えても、彼らは苦にしない」
「そういうものかな……」
 太陽のあたる、潮風のあたらない、嵐がくるまえに取り入れてやれる、そんなところに置いておきたい。曇りのつまらない日には本を読ませて、夏の暑い日にはピクニックに行こう――そんな環境が彼女らにとって快適だと思ってしまうのは、おそらく誤りなのだろう。
 人の幸せと植物の幸せは、とうぜんに違う。彼らが求めるのは言葉や絆ではなく、彼ら自身にとって最適な場所で根をはり、長い長い時間を生きて、世代を超えて、大地を支配すること。
 一代一代のことだけを考えて、自分自身の幸せを追求することが主である、おれたち人とは違う。どうやら、トカゲとも違う。
「いいんだよ。女のかたちをしている以上、いろんな人間からいろんな幻想や欲望を押し付けられるだろ。人間のかたちをしている以上、いろんな社会からいろんな責任や権利を押し付けられるだろ」
「そして植物である以上お前にも何かを押し付けられるのか」
「そう」
 何にも押し付けられることのない、生い茂られる場所へ。彼女はどこまで北へ行くのだろう。仲間はどれほどいるのだろう。そこが極寒のさびしい場所だとしても?
 さようなら、少女。
 さようなら。
  
 了
  
  
  
 20170913


小説のなかで使う聖書の言葉を引用しようと、wikisourceにアクセスしたら、よくよく知っている一文に遭遇した。


ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。(マタイによる福音書、第一章二十四節)


わたしは教会で英語を習ったので、教材の一部に聖書を使うことがあった。この一文の意味の分からなかったわたしは、先生に尋ねた。結婚する相手のことを『知らない』というのはどういうことですか?

先生は、ここでいう知る、というのは、愛するということであるとわたしに言った。
わたしは反論した。「でも、相手を知ったからといって愛するわけでもなければ、まったく何も知らない相手を好きになるという一目ぼれ現象も世の中にはあるといわれるのに、どうして、知ると愛するが近い言葉なんでしょう?」

先生は困ったように笑った。細かいことを先生に聞きたがる子供だった。とくに、一対一のときには。

 *

「たとえば」

 わたしはなにか、この人を元気付ける言葉を言おうと思った。元気付ける。勇気付ける。直接的にそうはならなかったとしても、なんとかそういうふうに思える、いわばかれの気を逸らせるような文章のこと。言葉にはそういう力があると、わたしは信じていた。

 なにを言えばいいだろう。スピリチュアル? 神の御言葉? 運命について語り、その唇から呪いをはけば満足? すべては定められていたのだと、納得できるような教唆的な台詞はなに?
 かれの瞳を見る。そこには宇宙が広がっていた。イオ、カリスト、ガニメデ、エウロパ。かつてわたしが欲しかったすべての煌き。

 しかしわたしは。

 不思議な女でい続けることはもうたくさんだった。

 *

 結局、上司に相談するとよいのではないかしら、と言った。それが難しいならば健康管理室とかどう?

「ずいぶんその……普通のことを言うのですね」
「普通はお嫌い?」
「嫌いではありませんが、普通については、その……普通だなあとしか」
「つまり好ましくは思えないということよね」
「あなたの言葉が好きなのです」
「わたしの言葉ではないわ」

 大きく息を吸って、また吐く。この腹痛を抱えたまま生きるのはもうたくさん。

「あなたのための言葉よ。わたしの言葉をあなたが好きなのは、それがあなたのための言葉だから。わたしの言葉を求めるのではなく、あなたのための言葉を求めているの」

 まったくそれで悪いとは思わない。ただ、わたし一人が悲しいだけ。

 

 

20170913

ある本を読んで、「こんなものを書いてもよかったんだ」と思うことがある。そんなふうに感じたとき、わたしは自分のなかに巨大な檻が隠されていたことを知る。あまりに自由でいたように思うのに、それでも縛られていた。いつでも縛られている。気づかないうちに。あるいは気づかないからこそ、縛られ続けていた。

 *

あたりまえのことなんてひとつも書きたくない。当然のことだけを議論する人間にはなりたくない。できれば答えが分かれていて、確実にどちらかが正解だとはとうてい断じることのできない、そういう難しい問題だけを、君と朝になるまで話し合っていたい。たまにお互いの立場が入れ替わってしまってもいい。自分の言っていることが分からなくなって、敵対しているはずの君に助言を求めたりするような、そういう関係のこと、わたしは友情と呼びたいんだけど、君はどうかな。

 *

あまりによい人間をよく見かける。それはたぶん、わたしがいい人間だからだ。と、そんな風に思えるのは、ほかでもないわたしが、いい人間の前ではいい人間でいようと思うからだ。

 

わたしの思ういい人間。まず一人目はきみだ。きみはわたしが出会ってきた人たちのなかで、もっともよい人間でありつづけている。初めて出会ったときからそうだ。きみは他人が困るそぶりをしたら、すぐに事情を聞く。きみは自分と他人の持っているものの大きさを常に確認していて、自分のほうが大きいものを持っているようだと気づいたら、すぐに交換しようか尋ねてくる。きみは率先してお茶を入れる。便利になろうとする。写真を撮ったあと、自分の顔よりも友達の顔を先に確認する。よく分からない冗談でも笑う。わたしはとくに何の役にも立たない花だけを、きみにいつも買っていく。きみに失望されない人間でいようとわたしは人生のなかで何度も誓った。

 

二人目はあなただ。あなたはいつも優しそうにしていて、そのあまりの棘のなさに驚く。悪い人が近寄ってきやしませんか。甘やかされようと寄ってくるいやな男がいたりしませんか。そんなふうに心配になるほど、あなたは優しそうにみえる。害悪をあなたは憎んでいる。不和を恐れているのに、たまにぐさりと人を攻撃することもあって、その不思議な落差。わたしはあなたに何度も教えをいただいた。そのとおりに出来ないことばかりだったけれど、できるだけ人生の教科書のように、たまに思い返すようにしています。

 

三人目は、お母さん。母はいつもいい人間だった。子供に優しかった。弱者に優しかった。おせっかいな人だった。誰でもすぐに世話をやいた。プライベートに平気で立ち入った。あまりにやりすぎではないかと思うほどに。でも、わたしがなんと思おうと、母に感謝している人がとても多い以上、きっと彼女のおせっかいは人を救っているのだ。たいていの娘がきっとそうであるように、母親の言葉はいくつかの面でわたしの巨大な指針になっている。重なった布を留めるマチ針のように鋭く。わたしが人生で初めて自己犠牲による親切を施したとき、母はわたしに尋ねた。どうしてそれをするの。わたしは答えた。だって、誰かが見ていてくれるかもしれないでしょう。母は首を振って、大事なことをわたしに伝えた。「誰も見ていない。誰も見ていてくれなくてもかまわない、と思う分だけしなさい」。それが、今でも残るわたしのマチ針。すでに縫合は終わり、わたしの心はおおむね成型を終えたけれど、設計段階で針を刺したのは確実にわたしの母親と、そして父親なのだ。母親の「見ていてくれなくてもかまわない分」があれほど大きいおせっかいだと思うと、ほんとうにかなわない、と思う。

 

あなた方の前に立つとき、わたしはいつも、わたしであり続けようと思う。それはあなたたちが、信じられないほどやさしくわたしの心を育ててくれたからだ。尖りきって乾き、身勝手で激しく、特定の人間にしか愛をあたえなかったわたしの、その勝手な部分まで含めて、水をやり柔らかくし、とにかく愛情を与えてくれたからだ。

 

あまりにもよい人間をよく見かける。どうしてそんなに人に親切に出来るのだろう、と思うような人間のこと。そんな人間に対して、そんな人間の前にいるときだけでも、わたしはよい人間でいようと思う。誰にも知られてなくとも、高潔な人間でありたいと思う。もちろん、たいてい失敗している。おおよそのわたしはよい人間ではない。でも、彼らの前でだけは、ほんの少しでもマシな人間でいようと思う。

 

「わたしの周りっていい人間ばかりで、だから、たまに他人の話やテレビを見ていて、不思議に思うことがあるよ。わたしは運がいいだけなんだな」

 

と君が言ったとき、わたしはすぐにそれを否定してしまった。違う、君の運のおかげじゃない。

 

君のまわりにいい人間しかいないのは、君がいい人間だからだ。君が周囲を少しずついい人間にしているんだ。君のそばから離れたら、君の前ではいい人間であるその人も、ひょっとするとそうでなくなるかもしれないよ。そういうものなんだ。

 

わたしがそう言うと、君は、「カルマ的な思考は好きじゃないんじゃなかったの?」と目を丸くして、それから笑った。君はいつも、わたしの言ったことをよく覚えていて、わすれない。そして君は言った。「きみも私から離れたら、いい人間じゃなくなるって言うのかい?」

 

そのとおりです。君の前でだけ、それなりにいい人間なのです。きみの人生がいいことばかりなのは、きみの幸運のおかげでも、なんとなくの運命のおかげでもない。ただ、きみ自身がいい人間だからです。

 

 

20170912