青鹿


 ぽーん。
 石を飛ばす、飛んでゆく、その軽やかな曲線を見つめながら、宮部はとなりを歩く伊木の横顔を盗み見た。いつだって彼らは連れ立って歩いていたので、わざわざ今、伊木の表情を確認する必要なんてない。たいしたイベントもない七月の終わり、夏休みモードに馴れ始めた倦怠をまとう身体をともなって、ふたりは歩いている。
「付いてこなくてもいいのに」
 見つめられ続けながら、伊木はふたたび呟いた。用があるのだ、と宮部は淡白に返す。
 用? 図書館に行くんだ。そんなのいつだっていいだろ、こんな朝早くじゃなくたって。友達と歩くのに理由がいるのか? そんな殊勝な性格してないくせに、よく言う。
 じゃれた会話を切るように、伊木はため息をこぼした。
「なにか気になることがあるんだろ。言ってみろよ、今度はなんの霊が憑いてる?」
「べつに、たいしたことじゃないさ」
「お前の『たいしたことない』は、ぜんぜん、これっぽっちも信じられないんだよなあ」
 言って、伊木は再び小石を蹴った。
 重力に逆らって、たいした引力も斥力も磁力も電磁誘導も弱い力もないうちに、伊木はその小石を踊るように操っていた。まるで見えない透明な糸があるかのよう。いつだったか、宮部は伊木に尋ねたことがある。どうやって、石を動かすのか? 彼は答えた。
「どうやって腕を動かすのか、どうやって幽霊を見るのか、おまえ説明できるのか?」
 問われて、宮部は完全に口をつぐんだ。たしかに、「できる」ことは「できる」から「できる」のだ。宮部が動物の霊を見ることが「できる」のと全く同じように。
 理由なんてない。どうしてたった二本の足でもバランスを崩さずに歩けるのか、犬に聞かれても答えられない。どうして皮膚というやわらかい表層しか持たず、外殻を捨てているのに、毎月かすり傷をつくりながらも何とか生きていけるのか。どうして目が二つあって同じ方向を向いているのに混乱しないのか。あるいは爪も牙も保護色も足のはやさも持たない人間が、どうやってここまで繁栄を極めることができたのか――も。
「分からないことはどうしたって説明できない」
「ほんとうに大切なことは目に見えないのと同じように?」
「ファンタジーだな、伊木啓太。俺はゲーテの話をしたんだ」
 伊木はもう一度顔をしかめ、そして唐突に笑った。彼はよく笑う少年だった。
「でも、俺にとって大切なことはたった一つだ。宮部、お前もきっと同意してくれると信じてる。ああウィルヘイム、この真実は決して変えられないということなんだ。俺は小石を意のままに動かせるし、君は動物の霊が見える」
「おおウェルテル。君は俺に手紙をあてて死ぬ男の役でもやるのか?」
 伊木があまりに劇画的な物言いをするのに、宮部は半ば飽きかけていた。しかし彼の、括弧書きの台詞を唱えるような語り口には理由がある。単純に単調に、彼は演劇部の部員で、役者で、近々大舞台を控えているのだ。

手記と手鏡、それから


 始まりは一通の手紙だった、と記憶している。
 シェヘラザードは、冷岩によって作られた机の上で、ペンを躍らせていた。彼は武人だったが、書の読み書きが珍しくも出来た。一冊一冊を繰り返し発露させる彼の、白皙の感情。ただただ歌うように熱にうかされるように彼は文字を書き綴り、そして焼却していた。炎は彼にとって憧れの対象であり、酸素が失われるのを彼はこよなく愛していた。ふざけるまでもない、彼の愛情はあの炎の一点のきらめき、あるいは垂直の真昼、凍えるような暖炉のそばにあり、それ以外はすべて灰色の薄墨にぬりつぶされたつまらない戯曲の一節に落ちる。彼は言葉を欲していた。ただただ――そう、幸福になるためでも、財を得るためでもない。なにかしらの目的があるものでもなく、ただ、彼の手元のこの冷岩と同じく、そこにあるもの、ただ存在するものと一端として、その証左のためだけに、ペンが必要だったのだ。
 彼にとって文字とは己の心のそのまま生き写しに他ならなかった。文章は生きている。文字を書くことは、魂を削り、紙面に命を吹き込むことであり、つまりは病をあえて発露させるような愚行でもあると、彼ははっきりと認識できていた。彼にとって文字とは、文学とは――――いや、もうやめよう。ただ彼の愚かさを少しでも希釈したく、わたしはこうして彼の異常なれまる執着について書いている。しかしこれは正しくない。本当に、真に彼に誠意を見せたいと願うなら、彼の愚かさは愚かさのまま、そのままに密封し決して酸素をいれず、ただ生ものとして取り扱うべきなのである。
 そう、始まりは、一通の手紙だった。それ以外のなにも、彼の人生を壊す手がかりは存在し得なかった。文字に支配された彼の人生は、文字によって幕引きされる。そこまでをくるめて考えるのならば、彼が文字に魅了される性質を持って生まれてしまったその瞬間に、この数年にも及ぶ運命は決定されつくしていたといえなくもない。しかし、運命論は好きではない。すべてはあらかじめ定められていた――そうやって始まる物語ほど面白くないものもない。しかし、わたしが思うに、彼の運命はまさに決まっていたのだ。誰が毒牙にかかるのか。毒とはなにか。牙は何か――むろん、文字である。
 物語を先に進める。シェヘラザードは気に入りの青インクをもう一度吸わせようと、ペンを取って壷の中へひたした。その落水の音が何よりも好きだった。シェヘラザードは愛情深い男だった。ペンが思うぶんだけインクを吸うのを、男にしては辛抱強く待った。その短い時刻のなか、彼は手持ち無沙汰の気を受けて、見慣れた机上をわざわざ見渡した。それが悲劇の始まりだった。彼は一通の手紙を見つけてしまったのである。
 見覚えのない手紙だった。彼の身分に届けられるような手紙の場合、たいていは家紋入りの封筒が家名入りの封蝋で閉じられている。香がたち、それなりに威厳ある状態で存在しているのが常である。シェヘラザードにとって手紙はただの紙の束ではなく、ひとつひとつが契約を孕んだ宣誓書に値する。それゆえに、あまりに薄い封筒を彼は不審に思った。彼は手紙を取る。


(熱に浮かされながら 2017/11/08)


「魂」
「なに?」
 ストアは持っていた本を持ち上げて、キスの顔を見る。機嫌がいいのか、今日は青いドーランが顔中にまぶされている。
「魂はどこへゆくと思う」
「僕は忙しいので、そこのクマに話しかけていただけますか?」
 キスはクマを持ち上げて、同じ質問を繰り返した。あまりに哀れだったが、一度突き放した手前、ストアはなにも言わなかった。キスはやがて、杖でふわりと彼(クマ)を押し、空中に揺わせた。
「幽霊を君は信じるかね」
「信じません」
「魂の持ち回りは?」
「信じませんよ。魂からなにもかも」



「どうして突然姿を消したんです」
「勘違いかな。『どうして自分の前から勝手至極に消えうせたのか』と、君は僕をどうやら詰問したいようだ」
「質問に答えないのはあなたの悪い部分だとずっと思っていました」
「そうだな、悪かった。純然に悪かった。なぜ君の前から姿を消したのか、それはね、君に答えられるはずのないことを問い続ける自分の性分というものが嫌になったのさ」
「嫌に」
「そう。君がじゃない、君の前にいるときの僕のことを嫌いになったのだ。この違いは大変に大きく、そして君に最後に差し出せるヒントだ」
「あなたはときたま――いや、常に、僕に謎掛けをしている。いったいなにが楽しいんです。あなたはいったい僕に何を解いて欲しいんだ」
「問題すら明らかにならないのに、君はときに核心に至るようなことを言うね、ストア。だから好きだ。君のことは好きだ。ただ君の前でこうしてあいまいな態度を取るだけとって結局君になにももたらさない、そんな自分のほうこそ嫌いになったのだ。嫌気が差したんだよ、ストア」



「ねえ君、知っていたかね。魔術士というのは実は、作家なんだ」
「いえ、あなたは間違っている。魔術士は魔術士です」
「なんと面白みのない! 少しぐらい付き合ってくれないものかな」
「遊びたいならほかの人とにしてください」



「ねえ、まだ言わないの」
「なにをだ」
 分かっているくせに、この人はどうしてこんなことを言うのだろう、と辟易する。
「師匠に言わないの」
「ストアに? 言わないさ! 何もね。何ひとつあの子は知らなくていいことだ」
 師匠はどう見ても大人の男性なのに、彼をあの子なんて呼ぶ叔父のことが、僕はいっそ恐ろしかった。



「僕はあの人のことを心から信じてるよ」
 僕も君にとってそういう人になれるよう努力するつもりだ、と言おうとしたがストアは、結局なにひとつ言えなかった。圧迫させてはならない。他人を威圧するために、僕は生きているんじゃない。そういうふうに思えることが僕の矜持だ。恵まれて生まれた僕の、最後の砦でこそある。
「僕はあの人のことを信じている……」
 それはまるで自らを呪っているようなつぶやきでもあったが、それでかまわないとさえ思った。
 呪われて構わない。
 これは信仰のひとつだ。


三幕および四幕の断片より。


 なめらかな曲線を描く書棚は、よくよく油のしみこんだ銘木イルゼナ材をまぶしい夕陽に光沢させていた。ところどころに掛けられている脚立は、細影をあしたか鶴のように伸ばしている。奥には巨大な窓でもあるのか、黄色の光が飛び込んでいた。ストアは目を細める。
 黒の工房にも、大きな書庫があった。共用の本棚と個人の本棚が、区別されてはいたが同じ空間に並んでいて、ときにストアは知らない兄弟子の棚を覗いては、蔵書印を確認して拝借の交渉をした。ストアは貧しい農民の家に生まれた。村中の本をかき集めても、棚が作れるほどの冊数はなかった。ストアの常識では、本というのは湿気から守るために箱のなかに大事にしまっておくためのもので、決して背を曝して棚に並べるものではない。だから、抜き取るのが難しいほどぎゅうぎゅうに詰め込まれた棚を初めて見たとき、ストアは笑った。――まったく、世界が違うところに来てしまった。
 キス・ディオールの書斎は、大きさでいえばそれほど巨大なものでもなかった。中央に円柱型の本棚が一つ、その周囲をやはり、本棚が取り囲んでいる。少々豪勢にすぎるバーバーチェアと、一点のシェーズロング・チェアソファだけが、わずかにこの部屋の主の存在を、真夜中に点った蝋燭のようにおぼろげに浮かび上がらせていた。これがなければ、国の指定遺産の部屋だと言われても信じられたかもしれない。椅子が貧相だというのではなくて――ただ、そう、個性的に過ぎた。書物に囲まれるなかにおいて唐突な存在であるところのバーバーチェアはもちろん、シェーズロングの大きさもなかなかのもので、ストアの体なら横になって休めそうなほどに長い。ふかふかで、家のベッドよりも寝心地はよさそうだ。家具の趣味はいいものの、やはり床面積は小さく、総じてささやかな部屋だと思う。ただ、わずかばかり上に長い。
 見上げれば、とぐろを三回ほど巻いたような形をしている。上の上まで本は詰まっていた。最上の点、そこにだけ小さな天窓がしつらえてあり、編まれた紐が降りている。ストアは二階部分にあたる小フロアの棚に、懐かしい術本を見つけた。つい手に取りたくなって、どこから上がるのだろう、と不思議にあたりを見渡しても、どこにも梯子も転移石もない。
「やあ、気に入ってくれたかい」
 あたたかな声が響いて、ストアは振り向かずにうなずく。
「はい、とっても――なんて素敵な書庫でしょう」
「と、言う割には何も手にとっていないじゃないか。上には小さいが書机もある。インクは好きかね? 僕は少々嗜んでいてね、ここからは見えないが、インク壷とペンとを、上の箱に展覧してある。よかったらご高覧あれ」
「――上に」
 再びストアは、子供特有の細い首を伸ばして書棚を見上げた。ぷんと香る木材の香り、包み込まれるような古書の香り、それらに圧倒されながら、まだ見ぬ本はこんなにもたくさんあったかと、心動かされる想いだった。上に――。
「上に、行ってみたいのですが」
「行けばいい。誰も止めないさ」
「でも、どうやって?」
 おやおや、と一段低い声でキスが歌うように言って、次いで指を鳴らす。それを合図に、ほんの一瞬だけ、床が足元から離れる――しかし浮遊感はない。重力も及ばないほんの一瞬だけ、床板がはずされて、またすぐについた、というような――不思議な感覚だった。
「君は『魔法』というものを知らないのかね?」
 キスがそんなふうに笑って、よろめくストアの背を押した。深呼吸して、背後を振り返る。木製手すりが夕陽に黒光りしていた。バーバーチェアは眼下に転がっていた。ストアとキス・ディオールは、一瞬のうちにフロアを上がっていた。もちろん、魔法のちからで。
「転移石は使わないのですね」
「『転移』したのではない」
「では――移動?」
「その通り! とても早くね」
「飛んだのですね。軌道の計算がお早くて驚きました。二人いたのにぶつからずに――」
「いや、僕は計算がひどく苦手だ。そのせいでとんでもないことをやらかしたこともある。それに、もう一つ君は間違っているな――君が飛んだのではなく、この部屋が沈んだ。部屋のほうから来た癖に、どうしてぶつかる道理がある?」
「部屋が……? では、今、外の地面に、この書庫は沈んでいるとか……」
 そうだとすると、気付かれないようにこれほど大きなものを一瞬で動かしてみせるなんて、あまりに巨大な力だ。ストアは身震いがしたが、キスはすぐに言葉を重ねる。
「いいや違う」
「違う、というのは……」
「動いたのは世界すべてだよ、ストア。しかしね、別にこれは今この一瞬だけの話ではなく、そもそもこの世界のすべての運動がそうなのだ。君や僕を中心に世界のほうが動いているのだ」
「そんなふうに思えということですか?」
「――また勘違いをしたね。違う、僕は真実を告げたのさ。思想の問題ではなく、真実の問題だ」
 ストアは眉をひそめて少し考えたが、結局答えらしい答えを導き出すことは出来なかった。やがて所在無く漂わせた視線の先に、目当ての本を見つける。粉光をまぶしたように輝く、濃紺の上製本
「青の本だ」
「えらいね。僕は君の年のころ、青も赤も終わらせていなかったし、なんならいまでも終わっているかどうか怪しい」
 ストアは青の本を広げた。これほど美しい青本を見るのは久しぶりだった。青は基礎の本だから、たいていの術士はすぐに読み古して、硬く作られた上背も弱っていく。その分、傍らに置いて参考にするには便利だ。すぐに両手を広げてへたってしまう癖が、たいていの青本にはついている。
「僕はこの本の序文が好きなんです」
 ――呪文はいつも、自分だけを呪っているのだということを忘れるな。
 魔術士の基本とされる一文。夢がないと非難する者もいるが、この一文はストアに大きな自信を授けた。魔術とは自分を呪うということ。自分をごまかすということ。公式はなく、ただ自分の心のありようと向き合うことだけを求められるもの。
「そうかい。僕は桃の本の序文が好きだ」
 答えを意外に思って、ストアは首を傾けた。
 序文を唱えようと開きかけた口を、キス・ディオールは制する。
「――ああ、いい。ありがとう優しい子よ。大丈夫、君がここで何を言っても言わなくとも、君の賢明さは十分僕の存ずるところさ。君がジョバンニなら、僕がカムパネルラだ」
 何を言っているのか分からないままに、しかし制されたことで、ストアはキスに桃の本が好きな理由を聞けなかった。

(第二幕 二章 二節に続く)


 啓太くんがサイコロをぐしゃりと掴んだ。
 じゃらじゃらと手のひらの中でしばらく転がした後、いっせいに宙へ放り出す。

 ――賽は投げられた。

 五つほどのサイコロが、好き好きに転がりながら、それぞれのタイミングでカタンと音を立てて停止する。面が揃ったとき、背中に悪寒が走った。

「これって、手品?」

「――ううん、俺が振るとこうなるんだ」

 表を向いているのは、全て六の面だった。
 啓太くんはこの奇跡をなんでもないことのように、手馴れた様子でサイコロを回収していく。

「っていうか、好きなように出来るよ。たとえば……栄子さん、誕生日十二月だったよね。何日だっけ?」

「十三日。金曜日だったらしいわ」

「六以下の数字だけだね。ちょうど良かった!」

 四つだけサイコロを左手に握り、またじゃらりと投げる。
 何の変哲もないはずの小さな立方体が、一、二、一、三……と止まった。

「凄い……これ、どうして」

「分かんない。五歳ぐらいの頃かな、やってみたら出来たんだ。あんまり大きすぎるものだと無理だから、商店街でやるような、大きなサイコロとかは駄目。あれがコントロール出来たら、一等の洗剤、毎回もらえるのになあ」

 啓太くんはくしゃりと笑って、サイコロを再び回収していく。

「あの、浮かしたりはできないの? 例えば落ちているコインを触らずに持ち上げたりとか」

「ね。ほんとはそんなことがしたいんだけど、そういう力と、俺の力って種類が違うらしいんだ。同じ超能力――PKではあるんだけど、俺が出来るのはPK-MT。止まっているものを動かすには、PK-STって呼ばれる力が必要なんだって」

「PK……ああ、聞いたことあるかも。サイキックとか、ユンゲラーとか……」

「あはは、そうらしいね。俺はスプーンも曲げられないけど……それに、霊も見えないし」

「霊を視る力も、また別なの?」

「うん、あれは、超能力じゃなくて霊能力っていうくくりで、そもそも違うものなんじゃないか、って話が有力かな。たしかに理にはPKはないし、俺には霊能力がない。でも、両方出来る人たちもいるんだよね。あと、超能力者の子供は、小さいころ霊を視ることが多いらしいよ。だから、何かしらの相関は、あるんだと思う」

「でも……例えば両方持ってるって主張する人のことって、どの程度信じられるか分からないじゃない?」

「うん、そうだね。確かに超能力や霊能力って聞くと、ほんと胡散臭いしね」

 啓太くんはサイコロをまたいじりだしながら笑う。
 三つのサイコロを、すべて一、すべてニ、すべて三と、何度も揃えなおしていく。本当に奇跡だ。

「その……宮部くんと啓太くんのことは勿論信じてるんだけど」

「あ、別に気にしたりしないよ。まあ、普段はやっぱり、白い目で見られること多いし、あんまり言わないけどね」

「何か言われたことがあるの?」

「ううん、俺はあんまり。サイコロ揃えられるぐらいだし、周りにばれたところで、すげー! って言われて何度もやらされるぐらいで。でも、理は辛いこともあったんじゃないかなぁ。あいつは生きているものも死んでいるものも同じように見えるから、死生観、っていうのかな。そういうのも小さいころから考え出しててさ。そういう子供って、大人から見たらちょっと不気味に見えるんでしょ?」

 確かに、そうかもしれない。理くんはそもそも頭がよさそうだし、きっと賢い子供だったんだろうな、と思った。その賢さが、両親や周囲の人々を不安にさせることだってあったろう。
 まあ、栄子からすれば、今もまだ彼らは子供のようなものだが。

 

 

冷蛇第四話

四幕第一章 - 1 -


 一切の仔細を捨て置いて、分析士・キス・ディオールその人が音信を不通とし行方を完全に暗ましてから、既に三ヶ月が経とうとしていた。
「本当にあの人は勝手だ」
 思いがけず宙に放られたその言葉は、自分で思うよりも大きくなって響く。このままあの人にも聞こえたらいいのに、と思いながら、ストアは机上に据え置かれたままの円形の不思議な置物を見やった。
 それは不思議な色合いをしていた。青のような緑のような、黒々とした艶感ある材質。常に表面で煙が吹き上がり、かつそれが収束している。これはガイアというのだ、とキスは言った。
「ガイア?」
「ああ、星のことだ」
「こんなに小さいのに」
 そのあとキスは、数日にわたりその星を見つめ続けていた。日に透かしてみたり、手のひらで転がしてみたり、あるときは犬に食わせていることすらあった。いったい何なのか分からないが、色と質感を常に変化させる美しい宝石のようなのだから、もう少し大事に扱えば良いのにと投げやりに考えていた。
 ――その、翌日のことである。
 キスが唐突に、姿を消した。また例のごとく、突然体が小さくなったり犬になったり、あるいは置物に変化したりしたのかと、部屋中をあさってみたが、魔術の残滓を見つけることは出来なかった。何かしらに変化してしまったのなら、変化できなかった「なにか」が現場に残るはずだ。体が小さくなってしまったときにはシルクハットだけが中途半端な大きさで転がっていたし、犬になったときはもっと簡単で、服が一式残っていた。
 であれば単純に遠出したのかとも思ったが、外套は玄関横に掛けられたままだ。これを酷く気に入っているあの人が、置いて旅に出るわけもない。金庫の中を覗いてみると、一ガラットも減っていなかった。さすがに無一文で出かけるはずはない。というかここの金を持っていかれていたら、来月の家賃が払えなくて困るところだった。
 いったいどこにいるんだ。
 と思いこそすれ、ストアはもう大人なのでそんなに心配はしていなかった。まあ、自分でなんとかするだろう。そのうち帰ってくるだろう。だから、今は今のうちしか出来ないことをしておこう、と前向きに捉えて一人暮らしを謳歌していたのだった、が。
「そのまま三ヶ月が経ったと」
「その通りです」
 憔悴しきった顔で頷くストアに対し、なるほどと返答するステッキを握った男は、リュエルだった。
 彼はキス・ディオールの友人で、その点だけ言えばひどく奇人なのだけれども、本質的にはとても良い人だ。いつも唐突にキスを訪れ、ストアにも土産をくれる。今日も少し珍しい花束をくれた。初めて出会ったときの年齢が低かったからか、今でもストアのことを子ども扱いする数少ない大人の一人だ。(この世界では魔術士はその早熟な特性上、実際の年齢よりも精神的に成熟しているものとして扱われることが多い)
「さすがに心配だな。どこに行ったんだか」
「春の半ばに消えたんですけど、もう夏が終わろうとしているんですよ。いったいいつ帰ってくるつもりなんだ」
「きみ、仕事はどうしてたの?」
「いつも通りやっていましたよ。あの人がいなくなったから困ることといったら、三軒隣のテディのお婆さんの言うことが分からないぐらいです」
「彼女の言葉は特殊だからな」
「ええ、此間なんて、僕の顔をみて不思議に笑い出したので微笑み返してみせたら、次の瞬間泣き出されたんです。きっと僕は悪いことをしたんでしょうね、生涯理解できそうにありませんが」
「ああ、きっとそうなんだろうな。なんだか目に浮かぶようだ」
 リュエルが乾いた笑いを残して、紅茶をぐびりと嚥下する。
 コトコトと今朝温めた鍋が音を鳴らし、遠くからは鴉の鳴き声がした。吉兆だ。うららかな木漏れ日が、窓枠に反射して拡散的に室内に入り込む。美しい光のダンスを眺めていたら、どこかから子供の声までするようだった。
 酷く和やかな午後だ。
「こんな世間話がしたいわけじゃない」
「同感だよ、ストア。まあ、と言っても僕もキスの行き先に心当たりはまったく無い。とはいえ、一日二十六時間(註:この世界では、一日は二十六時間に値する。「一時間」という単位も厳密には違うのだけれど、混乱を減らすために訳で対応することとする)、常に一緒にいる君が知らないというのであれば、おそらくやつは何も手がかりを残していってないのだろう」
「もしかしたらあなたと一緒なのかも、とも思ったんですが」
「違うな。まあ、手紙が途切れたことは不思議には思っていたけれど」
「……実は、先ほどもお話したところですが、一つだけ手がかりのようなものがあるのです。解析の仕方も分からず、次につながる鍵も示されておらず、何も頼りになりませんが」
「あの宝石だね。球の形とは不思議だ。ガイアというんだったか」
 リュエルは立ち上がり、引き寄せられるようにガイアへ寄ってその光のなかを覗き込んだ。ガイアはきらきらしく、光をうまく反射して輝く。リュエルはしばらくの間、ガイアを上から下からと、丁寧に観察して見せた。そういえばこの人は学者なんだった、と今更ながらに思い出す。観察と研究と仮説設定が何よりも大好きな類の人間なのだ。
 やがてリュエルは、証明終了とでも言うように明朗に回答を告げた。
「これは鍵ではなく、鍵穴なのかもしれない」
「どういうことです?」
 謎かけめいた語り口に、ストアは一抹の不安を覚えた。キスならいざ知らず、リュエルは何の根拠もなく人を不安にさせるようなことを言う男ではない。
「つまり、さまざまな謎を解き明かし、その答えをもって最後に開くのがこの球、という感じがしているんだ。だからこの球を穴が開くほど見つめても、おそらく何も出てきやしないというわけさ」
「でも、それ以外に手がかりはないんです。……ああ、彼のことが心配なのか、そうでないのか、だんだん分からなくなってきました」
「まあ、分からなくはないよ。しかし、奴の若いときにはね、もっと無茶なことをしたものさ。今回が初めてというわけでもない――と言ったって、君にとっては初めてなんだから、とても心臓がもたないだろうが。それにね」
 唐突に言葉を切ったリュエルに、不安が募る。彼は普段、言葉を切ったりしないのだ。思わせぶりなことなどしない。
 それゆえに、彼の今日の話しかたは不思議だった。
「はい?」
「ストア。実は、すごく言いにくいんだが」
「なんですか?」
 悲報、もしくは訃報を告げられるような、後ろ暗い気持ちがした。自分はいったい、何におびえているのだろうと、恐怖している自分そのものすら怖い。
「君に、朗報なんだか悲報なんだか、分からないが、この報告をしなければならないことを、僕は光栄にも不幸にも思うよ。実はねストア、君の師匠が呼んでいる」
「師匠というのは、工房の?」
 魔法使いの弟子は、師の名前を直接呼ぶことができない。
 キスではなく、工房の師匠を指していることは明白だったけれど、念のため確認することにした。
「ああ、そうだ。キスは君の師ではなく、友であり分析者なんだろう?」
「まあ、本人はとりあえず、そうだと言っていますね」
「ハハ、冷たいことだな。……さて、そろそろお暇しようかな。聞きたいことは聞けたし、君が喋りたいことは喋れたはずだ。僕も伝えなければいけないことは伝えられた。もうひとつ僕から君に個人的に言いたいことがあるとすれば、まあ、元気出せよってところかな」
「えっ、もう帰るんですか?」
 恨みがましい口調になってしまったけれど、仕方ないだろう。久方ぶりに出会った話の通じる相手なのだ。この部屋に一人きりは意外にもさみしい。家が広すぎる。
「まあまあ。師匠の話を聞けば、そんな悠長な不安や悩みもふっとぶはずさ」
「僕の師匠がそんな幸せをラッピングしてプレゼントしてくれるとは、とうてい思えないのですが」
「えっ、幸せ?」
 リュエルは一瞬、時が止まったようにぽかんとして見せた。おかしい、とストアは思う。何か不可思議な、ストアにとって不都合なことが起きている。
 リュエルがぼうっとしていたのはごく短い時間のことだった。彼はその人好きする顔を崩して、ハハハと笑った。
「すまない、すまない。成長した最近のきみは少しだけ大人になって、すれていたからな。いや、君がもともと純朴で善良な人間なのだということを忘れていたんだ。いいかい、君が今の不安を吹っ飛ばすのは、君の師匠が幸せをくれるからじゃない。君の周囲にいる大人が、少しでも安らぎを持ってきてくれたことがあったかい? ――君の不安がふっとばされるのは、君の師匠が、より激しい嵐を持ち込んでくるからさ」
「嵐ですって?」
 ストアは自身の浅はかさを知り小さく呻き、リュエルが先ほど贈ってくれた花束を見つめる。やけに奇妙な取り合わせだと思ったのだ。メリッサの葉に、ニワトコの飾り。中央にひそやかに咲くアルメリアの花。
 ――どれも、花言葉が、『同情』。


「弟子、ですか?」
 ぽつんと呟くように発したその言葉は、まるで行き場をなくしたように宙をふらついているように見えた。今日はやけに、自分の言葉が置き去りになる。
 なんだか現実味のない、ふわふわとした感触が起き上がる。慣れないことをするときは、いつもこうだ。
 師匠は右手にある羊皮紙をくるりと回しながら、いつもどおり、ストアには一瞥も与えずに話を続けてみせた。
「そう、来週、朝一番にここに到着する。初日は手取り足取り教えてやりなさい」
「あの、出来る気がしません」
 早めに切ってしまおうと素直にそう言えば、眼鏡の奥の水晶玉のような瞳がぎょろりと動いた。
「ストア。確実な成長を確約して、弟子を持つものなどいない」
 叱られている、と気づいて目を伏せるも、次の言葉が出てこない。なんにせよ自信が無いものは、無いのだ。
 弟子を持つほど偉くなったつもりも立派になったつもりもない。ついでに言うと、今はキスもいない。
 ……はあ、と嘆息をつく。
 結局のところ、キスがいないから嫌なのかもしれないとも思う。彼がもしいま隣にいたら、絶対に「やれ」と言っただろうし、ストアはそれに従ったような気もする。
「キスは僕を迎えにきたとき、自信を持っていました。任せろと言ってくれていて」
「君の師は私だよ。あいつは分析士、少し違うのだ。私が君の将来について、何か一つでも確約したことがあったかね」
「……ありませんけれど」
 工房に初めて訪れた朝のことを思い出す。霧は深くたちこめていて、何処かから鴉の鳴き声がしていた。とんでもないところに来てしまったのではないか、という底冷えした恐怖と不安とがぐるんと体のなかで回る。単純に手先も冷えていて、冬の初めのことだった。
「自分の年齢を思い返したことがあるか? 工房を出てから、君はもう十四年にもなるのだぞ。カリトやキーラがすでに何人弟子を持っているのか、君は数えたことがあるか」
「ありません……」
 確かに、客観的な視点も交えて冷静に考えると、少し甘いことを言い過ぎているような気もする。魔術士でなくとも一人前とされる年齢まで、ストアは来てしまったのだ。そもそも杖を得た時点で失われるはずの周囲からの寛容の目が、たまたま『最年少術士』だったがためにそのままになり、継続して十年が経った。大人になるときが来るとしたら、それは今日ではない――もうずっと前、十四年も前のあの日に、訪れていなければならなかったのだ。かなり引き伸ばしたほうといえるだろう。
 ストアは深く頷いて、師の顔を仰いだ。覚悟を決めなくてはならない。
「やります。その子の名前を教えてもらえますか?」
「ああ」
 師匠はそこでようやく杖を持ち、何か迷うようにして髭を指の腹でいじる。
 ――迷う?
 いや、師は迷わない。そのはずだ。嫌な予感がする。
 そうして、訪れる。
 ストアにとって、第二の天啓が。
「彼の名前は、メロ・ディオール
「メロ――なんですって?」
「聞いたことがあるような語感と苗字だと思うが、君の予想は外れていない。自分であとで占うといい。ただし答えを先に教えておくならば、君が兄と仰ぐあの子の、三親等内の血縁者だ」

 

四幕第一章 2 へ続く


「だれとでもどっぷり仲良くなる必要なんてありません」
「君にはどっぷり愛する相手がもういるから、ということかな?」
「いいえ。僕だけの話ではなくて、誰にもいつでもどこででも、誰とでも仲良くなる必要なんてないのです。そんなふうに思う」
「そうか、でも君はどっぷり愛する相手も持っている。そうだね?」
 しつこいな、と思ったが、相手がリュエルなので、邪険にしようとは思わなかった。
 ストアは腰掛に座りなおし、掛け布を引き寄せてから、杖を一振りする。薫り高い紅茶がポットごと現れた。
「――今日はずいぶん、僕を困らせたがるんですね」
「私が君に好かれていてよかったよ。今日私は、君にまた一つ天啓を下さなくてはならない」
「なんでしょう? あなたの言葉はいつも僕にずっしりと響くんだ」
 リュエルは薄い唇を三日月のようにしならせる。ストアの出した紅茶が彼の唇の乾きをいくぶんかましにした。
「君はあの分析士から独立しなくてはならない」
「依存しているつもりはありません」
「もちろん。私は君に診断を下すつもりはないよ、医者ではないし、魔術士でも、ついでに言うなら分析士でもない。でも君はそうすべきだと私には分かる。これは忠告ではなくて天啓なんだ、ストア。君は一人で立たなくてはならない。もちろん、君のことを赤ん坊だなんていうつもりは毛頭ないけれど。そうだな――なんなら――あいつのことを忘れるんだ」
 リュエルの言葉は、いつもストアを驚かせる。その唐突さが、ストアは好きだった。キスもすぐにストアを困らせることを言うけれど、リュエルのそれはまた違う。どこが含蓄に満ちていて、あたたかく、やさしい、そして理解がしやすい。
 しかし今彼が言ったことは、どうにもストアの腑に落ちない。そしてただ困惑だけが、紅茶とともにこの部屋と、そしてストアの体内を満たしていく。不思議だ。耳だけが冷えるようで、ストアはティーカップであたためた指で耳たぶをもんだ。
 そして、一言だけ返す。
「どうして」
「君はそう言うだろうと思った」
「では、きっと答えもあるのでしょう。教えてください――どうして?」
「答えを知りたいか。理由を知りたいか。原因を分析したいか。状況を分析したいか。世界を変えたいか、認識を変えたいか? まあ、いい。教えよう。これは大いなるオマケだ。――君は本当はキス・ディオールを愛するべきではないからだ。君の玉座には彼以外、できれば術士以外を座らせなくてはならない」
「……彼が、そう言ったのですか」
「言っていないけれど、私には言ってるように聞こえたな。やつではないけれど、やつのようなものが、そういうふうなことを言ってるように」
「聞こえたのですか?」
「私には何も聞こえないし何も感じられないよ、ストア。私は術士ではない。気脈を持ってはいない。そのことを忘れたりしないだろう?」
 ストアは目を伏せたが、そういう態度をとることすら失礼に思え、結局あいまいに視線を宙へ漂わせた。彼が、魔術を行使できないことをコンプレックスに感じていることはいまさら地の文にすら書くべきことではない。困惑した気持ちを整理しようと、みみず文字を空に描く。頭のなかでやっていたつもりだったのに、バチンと火花が出て、一匹の煤けたミミズがカーペットに落ちた。
「混乱しているようだね」
「術の抑制が苦手なのです。恥ずかしいことですが」
「私の考えでは、君たちの能力は、抑制する必要なんてまったくない。溢れて爆発して暴れて、そういうふうに使ったほうがきっといい」
「そうでしょうか」
「ああ、そうだとも。難しいことを考えるからキス・ディオールなんてものが生まれるのだ」
「……そうでしょうか……」

 

 

三幕四章に続く