meeparticle2

ぜんぶ嘘なので気にしないでください。

ぜんぶ嘘なので気にしないでください。メインブログはこちら:meeparticle

 

ブログでも書くか。と思ったのでここに来ました。本当は、福岡の旅行記とか読み終えた本の感想記事とか色々宿題があるというのに、そのどれも完遂できないままでいます。なんか色々やりかけたまま死ぬのかもしれない。うそです。大げさな表現をしました。

 

どういう夜を選んで文章を書いていたのか、よく思い出せない。つらい夜に書いていたのかもしれないし、結構頭のスッキリした元気な日の昼に書いていたような気もする。書いていたときのことが全部あいまいで、なんだかうまくつかめない。思い出せない。自分で書いたはずの文章が、ぜんぶ遠い親戚みたいによそ事で煩わしく思える。

 

うまい文章を書く能力が少しずつ衰えているような気はしていて、今年をタイムリミットに定めていたのはやっぱり正しかったのかなあという気がしています。もう誰かに迷惑をかけてまで小説を書いていたくない。諦めたくない、というよりも、もうここまで縋って書いていたくない、という気持ちのほうにチェンジできるようになってきた気がします。

 

代わりにしようかなと思った絵は下手なまんまで上手くならず、歌については絶望的で、隔週で習い事先から劣等感を抱えながら帰宅しています。まあ、絵も歌も、どっちもちょっとずつよくなっているところだってあるんだけどさ、小説の代わりにはならないよね。あたりまえだよ。多少うまくなれたところで代わりになるはずなんてない。

 

十三月のうたも今年はもう作らなくていいかなって思ってたんですが、流れ星みたいな煌めきがあった夜に、ちょっとやってみてもいいかもって気持ちになって一気に作りました。もともとあの本の生まれの由来はそういう衝動性にあって、「今日なら作れる」って言える黄金の日を探し当ててなんとかうまくやっていくしかない。文庫本一冊の詩集なら奇跡の日を待つだけで十分だけど、公募用のそれなりの長さの小説を一作書こうと思ったら奇跡を待つだけではだめで、日常と習慣が必要になる。べつにそんなに頑張らなきゃいけないわけじゃなくて、一日数千字でも書いてほしいんだけど、なんかうまくいかないな。

 

今日は久々に気分が落ち込んでいる。落ち込んでみてようやくわかったが、そういえば以前は毎日毎日このぐらい気分の沈みがあった。最近はずいぶんうまくやっていたようだ。

 

 

ゆっくりと腐り始めている。あるいはずっと前にすでに”腐っていた”ことを、少しずつ知り始めている。

 

おもたい自由記述問題を解かされているみたいな感覚だ。この世界のすべてがぼくのものになることはない。

 

世界は滅びてなどいないし、きみが好きなアーティストは来月も新曲を出すし、ゆっくりと夏は秋になって、来月にはハロウィンが来る。幸せはどこにでもあるけど、それだけで平穏を保つことはできない。

一つ前の記事にも書いている通り、結構切羽詰まっている。小説が全く書けなくなってから無事7カ月が経ち、この半年の間に「書きます」と約束したものもいくつかあるんですが、そのどれにも上手く答えられないまま時が経ちました。小説ではない文章なら、日記とか、Skebで頂いたお題を元にしたエッセイとか、いくつか書けたりもしたんですが、少しでも”ストーリー”の形をとろうとするともうだめです。とかとかそんなことを日記にわざわざ書くようなタイプでもないつもりでしたが、よくよくこの裏ブログを見返すと「書けない書けない」と鳴き声のように言っているし、まあ、そんなに珍しいことでもなかったのかもしれない。(「書けない」って気持ちになったらこっちのブログで記事を書く、という感じの流れになっちゃってるので、ここがいわゆる掃き溜めのような場所になっちゃっているというだけの話なんですが)

 

気分転換になにか新しいことをしたいんですが、ゲーム制作をするのも歌詞を書くのも油絵を描くのもデジタルイラストも、なんか大体やったなあ、いや、面白いけどさ、でもいつこれ「小説」に戻れるの? って、自分のなかでも恐ろしいままに時が過ぎて、だんだん、文章のことをちゃんと考えることができないようになりました。助けてください、と祈りをささげようにもわたしが信じる神さまはどこにもいなくて、ただただ「書けない」ってことを書くだけで、何ひとつとして生み出せないし、なにかがわたしの両手から生まれてくることもありません。

 

なんかいつもだったらもうちょっとうまい明るいラストまで書いてから公開するんだけど、その元気もない。ここには嘘しかないので、なにも気にしないでください。

最近

 

今日もコケた。

 

とても地味でつまらない話をいたします。わたしはすぐにコケる。1日1回は小さくコケるし、1か月に1度は痣を作るぐらい派手にコケる。あまりによくコケるので、公衆の面前で大きく音をたててばっちーーーんとコケたところで特に傷つきもしない。擦れた膝を撫でながら立ち上がり、えへへすみませーんと飛んだ財布を拾ってくれたおじさんにへらへらお礼を言い、時には「よく気を付けて」と知らないお姉さんに叱られつつ、あまり傷つかず立ち直って道に戻れる。よくコケる。あまりにコケるので何かの病気なんだろうかと思って色々心配したり健康診断のときにお医者さんに思い切って相談したりしてみたんですが、なんか、べつに、大丈夫みたいです。というわけでわたしはよくコケる。たぶん歩くという行動に対して最低限払うべき注意すら支払えないぐらいぼんやりしているんだろう。

 

世界は意外といい人間が多いなあ、と、不運なときほどそう思う。もう死んじゃおっかなあとか考えながらバスに乗ったら財布を忘れていて、やっべー支払えないじゃんって頭真っ白になったときに隣に座っているお姉さんが何故かわたしが手ぶらなことに気が付いて黙って500円くれたりとか、ひどいことばかりあってどっぷり疲れてしまった終電が、とってもぎゅうぎゅうで降りることができず泣きそうになっていたら見知らぬよっぱらいのおじさんが代わりに道をあけてくれてサムズアップしてくれたりとか、なんなんだ、どうして落ち込んでるときほどいいことばかり起こるんだって、天を仰いで誰かに「どうもどうも」と軽い感謝がしたくなる。頭を下げるほどじゃない「ありがとう」の言い方。

世界が慰めてくれている感じがする。ごめんごめん、やりすぎたよね、って優しく雨を降らせてくれてる感じがして、この世界そのものが母親のように感じられてくる。世界にありがとうって言いたくなるのは特権のひとつだと分かっている。「世界をあいしてる」っていう歌詞を気持ちよく歌っているひとの声を聞きながら、世界にあいされた人は簡単に愛し返すことができるのだ、って当たり前のことをちょっと捻くれた気持ちで歌い返したくなった。

 

 

今日は雨のなか、コケました。結構派手にコケて、財布もスマホも全部どっかに飛んでって、傘もズタボロにしましたが、全部見知らぬ誰かが拾ってくれて、気をつけなさいと叱ってくれました。まだまだこの世界には生きる価値があるよって誰かが暗にわたしに伝えようとしている。なんて思いたくなるぐらいに疲れている。

 

 

自分が人よりもうまく出来ること、いくつかはある。自分をどうしようもなくダメな人間だと、客観的な視点も含めてそう思うことはあまりない(主観的に「わたしなんてもうダメだあ」とは、毎日思っているけれど)。でも「日本全国のなかで」誰かよりうまく出来ることがあったからって、それがなんだっていうんだろう。この小さな自分という世界のなかで勝ちたい。と思うのはやっぱり当たり前のことなんだろう、たぶん。出来ないことが少しずつ出来るようになっていくのは好きだ。60点を65点にするよりも、10点を30点にするほうが楽なので、向いていないことに取り組んで少しずつ点数を底上げしてくこと、そんなに嫌いじゃない。「下手なのに好きだったもの」が一つでもある人は、ものすごーく下手なところから少しずつ上がっていく登山の楽しみを知っている。わたしは歌がものすごく下手で、でも歌うの自体は好きで、少しずつやり方を覚えたらちょっとずつまともに近づいていった経験があって、だから努力というのは(「すごい人になれる」という意味ではなくて「まともにはなれる」という意味で」)必ず報われるものだと知っている、のかもしれない。ゲームを作ることとか、歌をうたうこととか、絵を描くこととか、そういうことは、どれほどに下手でも、すこしずつすこしずつ階段を上がっていける。下手だなあと思ったら、そのぶんだけ成長するのが楽しみになる。素直でいい心に育った。心が傷つかないならコケるのはそんなに悪いことじゃない。頂点に行きたいわけじゃないなら、底辺ですこしずつ自分なりに力をつけていくのはそんなにつまらないことじゃない。でも、こういうことは、自分だけが知っていればいいことだ。ここに書くのすら間違っている。

 

でも、小説を書くことはコケることではないと思っていたんです。ほんとうにそういうつもりだったんです。成長すら必要ないほどの塊が自分のなかにあって、それを吐き出すだけでいいはずなのに、そうすることができない。と、そういうふうに思っていたんです。成長を楽しんだりする余裕がないぐらい真剣に愛していたつもりでした。

とある作品の感想に見せかけた、自分の話

チェンソーマン作者の新作短編、「ルックバック」を読んだ。

shonenjumpplus.com

 

 

 

 

久しぶりに、作品の感想に見せかけた「自分の話」をしようと思います。

 

とても幸運なことに、この作品の好評がTLに数多く流れてくる前に、この漫画を読むことが出来た。

まったく先入観を持たない人間になれたらいいなあと思うことがある。でもなかなかそうはなれなくて、結局わたしは作品と空気とを一緒に食べてしまうから、好評だろうと悪評だろうと、とにかくどちらかに世間の評判が大きく傾いている作品を鑑賞するのには苦労する。逆に、そうした評判を全く知らない状態か、あるいはそうした評判が出てくるよりも一足先に鑑賞することができたら、とても楽だ。人気作や酷評作は一切鑑賞できないというわけではないのだけれど、自分なりに作品にピュアに向き合って、まるごとの林檎を正しく食べるように、理解するのには、すこし手間がかかる。わざわざ油を落とさないといけないというか。

 

だからこの作品を、前評判なしで読むことができて心から良かったと思う。公開から一夜明けて、TLに今流れている数々の「刺さった」「深かった」「とても心抉られた」という言葉たちを浴びてからあの作品を読んでいたら、もしかしたら、わたしも同じように、「刺さった」「深かった」「とても心抉られた」という感想を抱いたかもしれないから。

 

ほぼ前評判なしで読み終えた。

女の子ふたりが創作の話をやいのやいのするところが微笑ましくて、ほほえましすぎて、胸がぎゅっとなるようだった。かわいい話だなあと思った。序盤8P目ではわらってしまった。わたしは二人を羨ましいと思った。終盤の「じゃあ、なんで描いたんだろう」、その問いかけには少し心を痛めた。最後まで読み終えて、いい漫画だったなあと思った。タブを閉じた。わたしに「誰か」がいないことを少しだけ寂しく思った。それだけだった。

TLに戻ると、みんなが矢に射られたように傷ついていた。

 

あれ、なんかおかしいなあと思った。その日とある可能性に気付きかけていたけれど、深く考えると眠れなくなりそうだったので忘れて眠ることにした。次の日、もっともっと膨れ上がっている絶賛の嵐に、ひょっとして何かを見落としているんじゃないか、昨日は調子が悪かったのかなと思ってもう一度読んだ。でもやっぱり、みんながつらかったって言っている8P目の、京本の画力に圧倒されるシーンはやっぱりわたしにはギャグにしか見えなくて、「こりゃ画家になれる絵だねぇ」とおばあちゃんが真面目な顔して言うコマは、そのあまりに写実的な顔に不釣り合いな甘やかしの言葉のギャップにわらってしまった。

 

でも、ギャグじゃなかったのか。

 

いやギャグだった。ギャグだったんだけど、みんなはここが刺さったんだ。なんでだろう? と不思議に思っていくつかの感想を読んでみた。

みんなとても分かりやすい言葉で感想を書いていたから、いくつか読めば、すぐに理解できた。この話が刺さらなかったのは、わたしが天才ではないからだ。天才だと誤解したこともないからだ。人よりうまくできたことなどないから。

そうか、みんなは、藤野だったことがあるんだ。なるほどな。自分が天才だと、誤解する程度には絵がうまかった人たちなんだ。「こりゃ画家になれる絵だねぇ」って、なんなら言われたことがあるんだ。そして人生の途中のどこかで、その言葉に(ある意味)裏切られたことがあるんだ。

わたしは、人より絵がうまかったことなんて一度もなかった。音楽は二歳のころからやっていたピアノですら下手で、歌も音痴だった。絵は周囲が苦笑いするぐらい下手だった。自分でも何もかも向いていないことがよく分かっていた。あんまり気にしてないけど運動もできなかった。勉強だけはそこそこできたけど小学校のときってテスト見せ合ったり席次が出たりしないから全然そのことに気付いていなかった。でも別に「たった一本の武器」がなくても小学校はわたしを無事に豊かに育ててくれた。「たった一本の武器」が必要になったのは中学校にあがってからだった。

 

中学校にあがる頃、さすがにピアノはやめた。「向いていないこともある」ということを、ピアノは私に教えてくれたんだ、なんて嘯いていた。実際そうだった。歌はようやく「音程」というものがどういうものなのか分かるようになったけど、どう色眼鏡をかけても友達のなかで一番下手だった。絵はずっと下手だったけど、一度だけ「その金閣寺上手いねえ、美術部?」と言ってくれた教育実習の先生がいた。でも誤解できるようなレベルじゃなかった。ついでに、仲良くしていた友だちはみんな結構可愛かった。「たった一本の武器」には小説を選んだと思う。でもべつに周りに比べて文章がうまい実感はなかった。周りに小説を書いている子はあんまりいなかった。一人いたけど、詩的な感性が私より確実に鋭くてとてもいい文を書く子だった。でも、文章に関しては、「他人に比べて私は下手だなあ」と思い沈むことはあんまりなかったような気がする。数学が好きだったので進路は理系にしようと決めながら、文章を日々書いていた。ブログも書いていた。詞も書いていた。小説もどきも書いていた。ノベルゲームも作っていた。でも、長編小説の書き方がどうしても分からなかった。

今に至るまでわたしは自分の文章を書く素質を疑ったことはあんまりなくて、ただ、その力を運用することができていないのを、結構真剣に悔しく思っている。わたしはそれなりの文章を書くときもあるけど、でも、「よい文章が書ける」時間がとても限られている。しかもそれを運用しきれていない。

 

 

TLに流れるたくさんの空気を食べてから、ルックバックをもう一度読んだ。

あらためて読むと、ストーリーの流れに無駄な部分がなくてとてもすっきりした上手い話であることはわかった。絵もやっぱりうまいなあと思った。でも、わたしはこの話を読んで、この二人がお互いを見つけられたことを羨ましく思った、ほほえましく思った、喪失をかわいそうに思った、でも、別に、しんどくはなかった。少しは悲しかったし沈んだけれど、でもそれは人が死ぬ話だからそうだというだけで、傷を抉られる感じはなかった。というか、

 

わたしに抉られるべき古傷は、なかった。

 

なにかを分かることが出来なくて、戸惑うことがある。あれっ、って思うことがある。みんなが好きなものを好きになれないたびに怖くなることがある。それは、「みんなと一緒じゃないから」怖いんじゃなくて、「みんなと同じ感性ではないから」怖いのでもなくて、「みんなの感性が理解できないかもしれないから」というわけですらなくて、つまり、「みんなが面白がる話を書けないかもしれないから」、だから、わたしはみんなが良いって言っている作品を分かれないのが怖いのだ。

 

 

誰かを理解できなくて、勝手に一人にされた気がして寂しくなって、なんだかどうしようもなくなってしまうことがあります。今回の事例は比較的ライトだし、創作に対する話なのでこうして記事に書けましたが、そうそうブログには書けないようなタイプの事象で同じことが起きることもあります。この寂しさ。こういう感情を、いつか文章で書けたらなあと思っています。あんまり書ける気がしないけど。たった一人で寂しいなあと思っているひとがどこかにいることを信じて。

 

 

でも、運用力がなくて書けない。 

 

 

 

 

20210213

 

日記でも書こうかなあ。なにか言いたいことがあるの? いいや、なにも。書きかけの下書きをいくつか覗いたけれど、落とし穴のおくから自分しか知らない真っ黒の泥がこちらをみていて、底に二つ開いている穴がたぶん何かの瞳だろうと思った。目を合わせていたくなかったのですぐ閉じた。

だから、と言うと話が繋がっていないように感じるだろうと思いますが、最近はだれかに嫉妬できるきみのことが羨ましい。でもその妬みすら灰色にうすく伸ばされている。

土日は本でも読みたいな。できるだけよい読み手でありたい、と思う。なにかを生み出すことがもうなかったとしても、読み手として、この世界にある良質なものをいっぱい吸い込んで殆どそのままを過去へ押しやる、ちょっとした濾過装置の一部になりたい。一部でありつづけたい。だれかを幸せにしたいと思えるのは、わたしがいま幸せだからだと思います。

「もう小説を書けるようにはならない」と天啓を得たように思いこむ日がわたしにはあるんだけど、でもそういう日って、じゃあなにが出来るっていうの? と自分にもういちど努めて優しく聞いてみても、「なあんにも出来ない」なんて言い出す。なにもかもがゼロになって、すべてが息絶えたような気がしているのなら、そんなはずはない、そんなのは嘘だから、だから小説が書けないことだってきみのせいではないのかもしれなくて、そんなことで苦しまなくていいよ。とわたしに教えてやりたいけれど、そういう時のわたしは誰にも相談をしないので(もちろん自分自身に対しても)結局わたしは一人きりで泥のおくのおくまで沈んでしまう。地面についてしまうすこし前でなんらかの浮力を得て戻って来られることもある。でも大抵は「もう小説を書けるようにはならない」という言葉を信じてしまって「もう自分はなにひとつ、なにひとつをも成すことはできない」という気分になって、ではそういう人間がこの先まともに生きていくためにはどうしたらいいのだろう、と変に前向きに将来のことを考えるようになる。こういうときには決断をしてはならないのに、《前向き》だから結構ちゃんといろんな検討を始めたりする。保険に入ったりとか、資産形成を考えたりとか、そういう堅実な物事のことだ。たまに思い出して自分を奮い立たせてくれる言葉、ってみなさんにはあるでしょうか。わたしは、ドラえもんが言った、「人に出来て君だけに出来ないことなんてあるものか」です。他人が出来ることは、大抵わたしだって出来る。自分だけにできないことがある、なんて思うのは、結局のところ自分を特別視してかわいそうがりたいだけで、やはりそんな特別な欠点はわたしにはないのです。人に出来て、わたしだけに出来ないことなんてない。同じく、人に出来なくて、わたしだけが出来ること、なんてことも、当然ないわけですが。

でも、それでも、限られたメンバーのなかで、この中で、この仕事をいちばんうまくやれたのはわたしだったろう、と妥協したうえで自分にゆるしを与えられることもある。もっとうまくやれるひとが勿論この世界のどこかにはいただろうし、隣の部署にすらいたかもしれないが、でも、ぱっと見渡して、ある程度合理的に人員を探すなら、わたしは、わたしは、たいていの人よりもこの仕事をうまくやったほうだろう。もちろん彼らの不満がなかったとは言わないが、それでも……と。

自分で自分をゆるすことができる、このスキルは、精神にとって一番つよい盾になります。こんなに弱いこころを持っているくせに《何ものをも貫かない盾》を装備することが叶わないわたし達は、それでも、貫かれたあとにすぐに傷薬を塗ってやることが、できる、のかもしれない。もしも自分で自分をゆるすことができたなら。

 

まあでも、それが一番難しいんだよなあ。なにかを乗り越えたり、決断したり、かなしみを和らげたり、痛みを緩和することは、小説にもできるかもしれない。でも、自分で自分をゆるす、これは情緒というよりもなにかのスキルなのかもしれない。小説を読んで装備できるようなものではなく、自己啓発書みたい帯のうるさい本を買って、資格試験にのぞむような気持ちで身につけなくてはならないものなのかもしれない。

「たしかに失敗はしましたが、まあ、でも、きみがきみを許せるといいね」と初めて上司に言われたとき、わたしはその言葉が表す価値というものが、とてもよくよく分かってしまって、その場で泣いてしまいそうになったんですが、あまりに心が疲れていると、ありがとうございますすら言えなくて、「そうですね」と無難すぎる返事しかできなかった。