なめらかな曲線を描く書棚は、よくよく油のしみこんだ銘木イルゼナ材をまぶしい夕陽に光沢させていた。ところどころに掛けられている脚立は、細影をあしたか鶴のように伸ばしている。奥には巨大な窓でもあるのか、黄色の光が飛び込んでいた。ストアは目を細める。
 黒の工房にも、大きな書庫があった。共用の本棚と個人の本棚が、区別されてはいたが同じ空間に並んでいて、ときにストアは知らない兄弟子の棚を覗いては、蔵書印を確認して拝借の交渉をした。ストアは貧しい農民の家に生まれた。村中の本をかき集めても、棚が作れるほどの冊数はなかった。ストアの常識では、本というのは湿気から守るために箱のなかに大事にしまっておくためのもので、決して背を曝して棚に並べるものではない。だから、抜き取るのが難しいほどぎゅうぎゅうに詰め込まれた棚を初めて見たとき、ストアは笑った。――まったく、世界が違うところに来てしまった。
 キス・ディオールの書斎は、大きさでいえばそれほど巨大なものでもなかった。中央に円柱型の本棚が一つ、その周囲をやはり、本棚が取り囲んでいる。少々豪勢にすぎるバーバーチェアと、一点のシェーズロング・チェアソファだけが、わずかにこの部屋の主の存在を、真夜中に点った蝋燭のようにおぼろげに浮かび上がらせていた。これがなければ、国の指定遺産の部屋だと言われても信じられたかもしれない。椅子が貧相だというのではなくて――ただ、そう、個性的に過ぎた。書物に囲まれるなかにおいて唐突な存在であるところのバーバーチェアはもちろん、シェーズロングの大きさもなかなかのもので、ストアの体なら横になって休めそうなほどに長い。ふかふかで、家のベッドよりも寝心地はよさそうだ。家具の趣味はいいものの、やはり床面積は小さく、総じてささやかな部屋だと思う。ただ、わずかばかり上に長い。
 見上げれば、とぐろを三回ほど巻いたような形をしている。上の上まで本は詰まっていた。最上の点、そこにだけ小さな天窓がしつらえてあり、編まれた紐が降りている。ストアは二階部分にあたる小フロアの棚に、懐かしい術本を見つけた。つい手に取りたくなって、どこから上がるのだろう、と不思議にあたりを見渡しても、どこにも梯子も転移石もない。
「やあ、気に入ってくれたかい」
 あたたかな声が響いて、ストアは振り向かずにうなずく。
「はい、とっても――なんて素敵な書庫でしょう」
「と、言う割には何も手にとっていないじゃないか。上には小さいが書机もある。インクは好きかね? 僕は少々嗜んでいてね、ここからは見えないが、インク壷とペンとを、上の箱に展覧してある。よかったらご高覧あれ」
「――上に」
 再びストアは、子供特有の細い首を伸ばして書棚を見上げた。ぷんと香る木材の香り、包み込まれるような古書の香り、それらに圧倒されながら、まだ見ぬ本はこんなにもたくさんあったかと、心動かされる想いだった。上に――。
「上に、行ってみたいのですが」
「行けばいい。誰も止めないさ」
「でも、どうやって?」
 おやおや、と一段低い声でキスが歌うように言って、次いで指を鳴らす。それを合図に、ほんの一瞬だけ、床が足元から離れる――しかし浮遊感はない。重力も及ばないほんの一瞬だけ、床板がはずされて、またすぐについた、というような――不思議な感覚だった。
「君は『魔法』というものを知らないのかね?」
 キスがそんなふうに笑って、よろめくストアの背を押した。深呼吸して、背後を振り返る。木製手すりが夕陽に黒光りしていた。バーバーチェアは眼下に転がっていた。ストアとキス・ディオールは、一瞬のうちにフロアを上がっていた。もちろん、魔法のちからで。
「転移石は使わないのですね」
「『転移』したのではない」
「では――移動?」
「その通り! とても早くね」
「飛んだのですね。軌道の計算がお早くて驚きました。二人いたのにぶつからずに――」
「いや、僕は計算がひどく苦手だ。そのせいでとんでもないことをやらかしたこともある。それに、もう一つ君は間違っているな――君が飛んだのではなく、この部屋が沈んだ。部屋のほうから来た癖に、どうしてぶつかる道理がある?」
「部屋が……? では、今、外の地面に、この書庫は沈んでいるとか……」
 そうだとすると、気付かれないようにこれほど大きなものを一瞬で動かしてみせるなんて、あまりに巨大な力だ。ストアは身震いがしたが、キスはすぐに言葉を重ねる。
「いいや違う」
「違う、というのは……」
「動いたのは世界すべてだよ、ストア。しかしね、別にこれは今この一瞬だけの話ではなく、そもそもこの世界のすべての運動がそうなのだ。君や僕を中心に世界のほうが動いているのだ」
「そんなふうに思えということですか?」
「――また勘違いをしたね。違う、僕は真実を告げたのさ。思想の問題ではなく、真実の問題だ」
 ストアは眉をひそめて少し考えたが、結局答えらしい答えを導き出すことは出来なかった。やがて所在無く漂わせた視線の先に、目当ての本を見つける。粉光をまぶしたように輝く、濃紺の上製本
「青の本だ」
「えらいね。僕は君の年のころ、青も赤も終わらせていなかったし、なんならいまでも終わっているかどうか怪しい」
 ストアは青の本を広げた。これほど美しい青本を見るのは久しぶりだった。青は基礎の本だから、たいていの術士はすぐに読み古して、硬く作られた上背も弱っていく。その分、傍らに置いて参考にするには便利だ。すぐに両手を広げてへたってしまう癖が、たいていの青本にはついている。
「僕はこの本の序文が好きなんです」
 ――呪文はいつも、自分だけを呪っているのだということを忘れるな。
 魔術士の基本とされる一文。夢がないと非難する者もいるが、この一文はストアに大きな自信を授けた。魔術とは自分を呪うということ。自分をごまかすということ。公式はなく、ただ自分の心のありようと向き合うことだけを求められるもの。
「そうかい。僕は桃の本の序文が好きだ」
 答えを意外に思って、ストアは首を傾けた。
 序文を唱えようと開きかけた口を、キス・ディオールは制する。
「――ああ、いい。ありがとう優しい子よ。大丈夫、君がここで何を言っても言わなくとも、君の賢明さは十分僕の存ずるところさ。君がジョバンニなら、僕がカムパネルラだ」
 何を言っているのか分からないままに、しかし制されたことで、ストアはキスに桃の本が好きな理由を聞けなかった。

(第二幕 二章 二節に続く)