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とある作品の感想に見せかけた、自分の話

チェンソーマン作者の新作短編、「ルックバック」を読んだ。

shonenjumpplus.com

 

 

 

 

久しぶりに、作品の感想に見せかけた「自分の話」をしようと思います。

 

とても幸運なことに、この作品の好評がTLに数多く流れてくる前に、この漫画を読むことが出来た。

まったく先入観を持たない人間になれたらいいなあと思うことがある。でもなかなかそうはなれなくて、結局わたしは作品と空気とを一緒に食べてしまうから、好評だろうと悪評だろうと、とにかくどちらかに世間の評判が大きく傾いている作品を鑑賞するのには苦労する。逆に、そうした評判を全く知らない状態か、あるいはそうした評判が出てくるよりも一足先に鑑賞することができたら、とても楽だ。人気作や酷評作は一切鑑賞できないというわけではないのだけれど、自分なりに作品にピュアに向き合って、まるごとの林檎を正しく食べるように、理解するのには、すこし手間がかかる。わざわざ油を落とさないといけないというか。

 

だからこの作品を、前評判なしで読むことができて心から良かったと思う。公開から一夜明けて、TLに今流れている数々の「刺さった」「深かった」「とても心抉られた」という言葉たちを浴びてからあの作品を読んでいたら、もしかしたら、わたしも同じように、「刺さった」「深かった」「とても心抉られた」という感想を抱いたかもしれないから。

 

ほぼ前評判なしで読み終えた。

女の子ふたりが創作の話をやいのやいのするところが微笑ましくて、ほほえましすぎて、胸がぎゅっとなるようだった。かわいい話だなあと思った。序盤8P目ではわらってしまった。わたしは二人を羨ましいと思った。終盤の「じゃあ、なんで描いたんだろう」、その問いかけには少し心を痛めた。最後まで読み終えて、いい漫画だったなあと思った。タブを閉じた。わたしに「誰か」がいないことを少しだけ寂しく思った。それだけだった。

TLに戻ると、みんなが矢に射られたように傷ついていた。

 

あれ、なんかおかしいなあと思った。その日とある可能性に気付きかけていたけれど、深く考えると眠れなくなりそうだったので忘れて眠ることにした。次の日、もっともっと膨れ上がっている絶賛の嵐に、ひょっとして何かを見落としているんじゃないか、昨日は調子が悪かったのかなと思ってもう一度読んだ。でもやっぱり、みんながつらかったって言っている8P目の、京本の画力に圧倒されるシーンはやっぱりわたしにはギャグにしか見えなくて、「こりゃ画家になれる絵だねぇ」とおばあちゃんが真面目な顔して言うコマは、そのあまりに写実的な顔に不釣り合いな甘やかしの言葉のギャップにわらってしまった。

 

でも、ギャグじゃなかったのか。

 

いやギャグだった。ギャグだったんだけど、みんなはここが刺さったんだ。なんでだろう? と不思議に思っていくつかの感想を読んでみた。

みんなとても分かりやすい言葉で感想を書いていたから、いくつか読めば、すぐに理解できた。この話が刺さらなかったのは、わたしが天才ではないからだ。天才だと誤解したこともないからだ。人よりうまくできたことなどないから。

そうか、みんなは、藤野だったことがあるんだ。なるほどな。自分が天才だと、誤解する程度には絵がうまかった人たちなんだ。「こりゃ画家になれる絵だねぇ」って、なんなら言われたことがあるんだ。そして人生の途中のどこかで、その言葉に(ある意味)裏切られたことがあるんだ。

わたしは、人より絵がうまかったことなんて一度もなかった。音楽は二歳のころからやっていたピアノですら下手で、歌も音痴だった。絵は周囲が苦笑いするぐらい下手だった。自分でも何もかも向いていないことがよく分かっていた。あんまり気にしてないけど運動もできなかった。勉強だけはそこそこできたけど小学校のときってテスト見せ合ったり席次が出たりしないから全然そのことに気付いていなかった。でも別に「たった一本の武器」がなくても小学校はわたしを無事に豊かに育ててくれた。「たった一本の武器」が必要になったのは中学校にあがってからだった。

 

中学校にあがる頃、さすがにピアノはやめた。「向いていないこともある」ということを、ピアノは私に教えてくれたんだ、なんて嘯いていた。実際そうだった。歌はようやく「音程」というものがどういうものなのか分かるようになったけど、どう色眼鏡をかけても友達のなかで一番下手だった。絵はずっと下手だったけど、一度だけ「その金閣寺上手いねえ、美術部?」と言ってくれた教育実習の先生がいた。でも誤解できるようなレベルじゃなかった。ついでに、仲良くしていた友だちはみんな結構可愛かった。「たった一本の武器」には小説を選んだと思う。でもべつに周りに比べて文章がうまい実感はなかった。周りに小説を書いている子はあんまりいなかった。一人いたけど、詩的な感性が私より確実に鋭くてとてもいい文を書く子だった。でも、文章に関しては、「他人に比べて私は下手だなあ」と思い沈むことはあんまりなかったような気がする。数学が好きだったので進路は理系にしようと決めながら、文章を日々書いていた。ブログも書いていた。詞も書いていた。小説もどきも書いていた。ノベルゲームも作っていた。でも、長編小説の書き方がどうしても分からなかった。

今に至るまでわたしは自分の文章を書く素質を疑ったことはあんまりなくて、ただ、その力を運用することができていないのを、結構真剣に悔しく思っている。わたしはそれなりの文章を書くときもあるけど、でも、「よい文章が書ける」時間がとても限られている。しかもそれを運用しきれていない。

 

 

TLに流れるたくさんの空気を食べてから、ルックバックをもう一度読んだ。

あらためて読むと、ストーリーの流れに無駄な部分がなくてとてもすっきりした上手い話であることはわかった。絵もやっぱりうまいなあと思った。でも、わたしはこの話を読んで、この二人がお互いを見つけられたことを羨ましく思った、ほほえましく思った、喪失をかわいそうに思った、でも、別に、しんどくはなかった。少しは悲しかったし沈んだけれど、でもそれは人が死ぬ話だからそうだというだけで、傷を抉られる感じはなかった。というか、

 

わたしに抉られるべき古傷は、なかった。

 

なにかを分かることが出来なくて、戸惑うことがある。あれっ、って思うことがある。みんなが好きなものを好きになれないたびに怖くなることがある。それは、「みんなと一緒じゃないから」怖いんじゃなくて、「みんなと同じ感性ではないから」怖いのでもなくて、「みんなの感性が理解できないかもしれないから」というわけですらなくて、つまり、「みんなが面白がる話を書けないかもしれないから」、だから、わたしはみんなが良いって言っている作品を分かれないのが怖いのだ。

 

 

誰かを理解できなくて、勝手に一人にされた気がして寂しくなって、なんだかどうしようもなくなってしまうことがあります。今回の事例は比較的ライトだし、創作に対する話なのでこうして記事に書けましたが、そうそうブログには書けないようなタイプの事象で同じことが起きることもあります。この寂しさ。こういう感情を、いつか文章で書けたらなあと思っています。あんまり書ける気がしないけど。たった一人で寂しいなあと思っているひとがどこかにいることを信じて。

 

 

でも、運用力がなくて書けない。