「いただきます」は何故言うのか?

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あれね。なんでなんでしょうね。けっこう永遠の謎だったりします。

 

「おはよう」とか「おやすみ」とかは分かるんですよ。コミュニケーションのきっかけというか、そういう類のものであって、人間同士の「挨拶」ですよね。でも「いただきます」ってけっこう、誰に言っているのかも、ほかの挨拶に比べると多少不明瞭というか、一人でも言うところをみると食材にたいしてかけている言葉のように思いますが、手作りの料理をいただくときなんかは正直作り手の人に向けて言っていますし、なんとなくシーンによって若干の使い分けがある言葉だと思うんですよね。そういえば異国にいたころはだれも「いただきます」してなかったな。

 

ところでこういうところでは上記のような一般的なお話よりも個人的な体験のことを書いたほうがよいかと思いますので(上記のような体験にもとづかないだれでも書けることはうまく書けるひとがきっとすでに書いていることでしょう)、わたし自身の「いただきます」体験についてお話すると、そもそもわたしは食事をするのが苦手で、食べるたびに胃のあたりになにかがつっかえるような痛みがあったり、脂分の多いものをたべると気持ち悪くなりやすかったり、そもそもひどい小食だったりということもあり、あんまり「食事」にたいして好意的な感情を抱いていません。一日に三度もお腹が空くのも腹立たしいほどなのですが、しかし当然食べなくては本も読めないし働けないので、しぶしぶ食べています。好きな食べ物だってありますが、もしもわたしがこの先「今後一切なにも食べられない(=食べなくてもよい)」のと「(お金に糸目もつけず)好きなものだけ毎日食べていられる」のとどちらか選べと言われたら、たぶん前者の、もう永遠に食事をしなくてもかまわないほうのわたしを選ぶと思います。だからこそ、というとなんですが、かのシモーヌ・ヴェイユの、「すべては生い茂り日の光だけを受けて生きていくことができない、食事をしなければ生きていくことができない、そこからすべての罪が生まれている。植物に罪は存在しない」(意訳)の言葉を初めて読んだとき、その一文の力にくらくらして、そのとおりだ、すべての罪は、わたしたちが植物ではないこと、なにかを食べなくては生きていけないことから発生しているのだ、とものすごく納得しました。

 

一時期、もう十年以上前のことですが、わたしは「いただきます」を言うたびに、目の前の食事が「生きていた」ころのことを考えていました。魚であれば、想像できるなかでいちばん美しい海をおよぐすがたを。ひれで海をかき、水がうしろへ流れ、ただまっすぐと、つめたい水のなかを進んでいく痛覚のない感覚。鳥であれば大空。夕日の向こうを目指す翼や、泥をつかむ足のゆび。生きていることについて不審に思っている人間の自分が、それでも毎日なにかをころして生きていることについて、考えても答えが出ず、とはいえベジタリアンになりたいのかというと、動物と植物の命とのあいだにふしぎな壁を明示的に設けてしまうことについてもよしとはできず、かといって何も食べないことはできない(なぜなら、わたしは光を受け生い茂り生きていくことのできる植物ではないから)。しかもわたしは他人よりもよく食事を残す。寮で出てくる食事は、味は悪くなかったけれどだいたい量が多くて、いつも生ごみに捨てる。

 

その贖罪をしたかったのか、考える材料集めをしたかったのか、動機は覚えていませんが、とにかく食べ物について、「いただきます」のたびに、そういう想像をしていました。この内臓がちゃんとあるべきところにおさまっていて、動いていたときのこと、死んだ瞬間のときのこと。これを考え始めると、当然ですが、ものすごくご飯が美味しくないんですよ。生きていたときと、死体になったばかりのときと、目の前の料理とを、グラデーションを重ねるみたいにして、空想のなかで表現すると、ほんとうに料理って、おいしくみえなくなるんです。でもそのときのわたしはそれでいいのかもしれないと思いました。きちんと想像した結果、食事をするたびに気まずく思うのであれば、たぶんそれこそが正解なんだろうと思ったのです。そういうふうに自分のなかで「いただきます」の儀式を使おうと思いました。数年後にちょっと考えが変わってやめてしまいましたが、結局あの気配はいまでも尾をひいていて、単純にそれだけが理由ではありませんが、やっぱり食事は苦手です。(たのしく出来るときももちろんありますが、ベースとして食べることじたいは好きではなく面倒であり、苦手である、ということです)

 

この話をすると美味しいご飯に連れて行ってくださるかたも多くて、それはたいへんありがたいことだと思っています。美味しいものを食べるのはわたしも好きですし、好物だってありますし、うれしいことでもあるのですが、しかしどうしたって食べることへの原則的な苦手な思いは結局克服されないままです。

 

さてこんなところまで読んでいただけている方はたぶん根気強い方だと思うので、調子にのって関係ない話まではじめてしまいますけれども、わたし「ほんとうのいただきますとは」みたいな論が嫌いなんですよ。よく家事系の話とかで、「いただきますの本来の意味とは」とか書いてある記事があったりするじゃないですか。あと「ほんとうの女子力とは」とか「ほんとうの男気」とかもきらいですね。ほんとうってなんだよと。「ほんとう」がほんとうにあるものについて論ずるならともかく、「いただきます」や「女子力」なんて曖昧あるいは儀式的・風習的なものに「ほんとう」なんてないじゃないですか。ズバッと言いたい人間の押し付けがましい気力のようなものすら感じる(言いすぎ)。一人でつぶやいてるだけならいいんですけど、居酒屋とかでとうとうと語られるのがほんとうに嫌いですね。ほんとうに関係のない話だった。

 

 

なぜ「いただきます」と言うのかは、正直わからないままですが、むかしは自分なりに意味づけをしていたときもありましたし、それが失われたいまもなんとなく言うようにしています。しかしそこに理由があるのか、これは礼儀なのか儀式なのか、ましてや意味も、ほんとうのところはわからないままです。

 

(というかみなさん私にこういうご質問するの好きですね。)