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ぜんぶ嘘なので気にしないでください。

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最近

 

今日もコケた。

 

とても地味でつまらない話をいたします。わたしはすぐにコケる。1日1回は小さくコケるし、1か月に1度は痣を作るぐらい派手にコケる。あまりによくコケるので、公衆の面前で大きく音をたててばっちーーーんとコケたところで特に傷つきもしない。擦れた膝を撫でながら立ち上がり、えへへすみませーんと飛んだ財布を拾ってくれたおじさんにへらへらお礼を言い、時には「よく気を付けて」と知らないお姉さんに叱られつつ、あまり傷つかず立ち直って道に戻れる。よくコケる。あまりにコケるので何かの病気なんだろうかと思って色々心配したり健康診断のときにお医者さんに思い切って相談したりしてみたんですが、なんか、べつに、大丈夫みたいです。というわけでわたしはよくコケる。たぶん歩くという行動に対して最低限払うべき注意すら支払えないぐらいぼんやりしているんだろう。

 

世界は意外といい人間が多いなあ、と、不運なときほどそう思う。もう死んじゃおっかなあとか考えながらバスに乗ったら財布を忘れていて、やっべー支払えないじゃんって頭真っ白になったときに隣に座っているお姉さんが何故かわたしが手ぶらなことに気が付いて黙って500円くれたりとか、ひどいことばかりあってどっぷり疲れてしまった終電が、とってもぎゅうぎゅうで降りることができず泣きそうになっていたら見知らぬよっぱらいのおじさんが代わりに道をあけてくれてサムズアップしてくれたりとか、なんなんだ、どうして落ち込んでるときほどいいことばかり起こるんだって、天を仰いで誰かに「どうもどうも」と軽い感謝がしたくなる。頭を下げるほどじゃない「ありがとう」の言い方。

世界が慰めてくれている感じがする。ごめんごめん、やりすぎたよね、って優しく雨を降らせてくれてる感じがして、この世界そのものが母親のように感じられてくる。世界にありがとうって言いたくなるのは特権のひとつだと分かっている。「世界をあいしてる」っていう歌詞を気持ちよく歌っているひとの声を聞きながら、世界にあいされた人は簡単に愛し返すことができるのだ、って当たり前のことをちょっと捻くれた気持ちで歌い返したくなった。

 

 

今日は雨のなか、コケました。結構派手にコケて、財布もスマホも全部どっかに飛んでって、傘もズタボロにしましたが、全部見知らぬ誰かが拾ってくれて、気をつけなさいと叱ってくれました。まだまだこの世界には生きる価値があるよって誰かが暗にわたしに伝えようとしている。なんて思いたくなるぐらいに疲れている。

 

 

自分が人よりもうまく出来ること、いくつかはある。自分をどうしようもなくダメな人間だと、客観的な視点も含めてそう思うことはあまりない(主観的に「わたしなんてもうダメだあ」とは、毎日思っているけれど)。でも「日本全国のなかで」誰かよりうまく出来ることがあったからって、それがなんだっていうんだろう。この小さな自分という世界のなかで勝ちたい。と思うのはやっぱり当たり前のことなんだろう、たぶん。出来ないことが少しずつ出来るようになっていくのは好きだ。60点を65点にするよりも、10点を30点にするほうが楽なので、向いていないことに取り組んで少しずつ点数を底上げしてくこと、そんなに嫌いじゃない。「下手なのに好きだったもの」が一つでもある人は、ものすごーく下手なところから少しずつ上がっていく登山の楽しみを知っている。わたしは歌がものすごく下手で、でも歌うの自体は好きで、少しずつやり方を覚えたらちょっとずつまともに近づいていった経験があって、だから努力というのは(「すごい人になれる」という意味ではなくて「まともにはなれる」という意味で」)必ず報われるものだと知っている、のかもしれない。ゲームを作ることとか、歌をうたうこととか、絵を描くこととか、そういうことは、どれほどに下手でも、すこしずつすこしずつ階段を上がっていける。下手だなあと思ったら、そのぶんだけ成長するのが楽しみになる。素直でいい心に育った。心が傷つかないならコケるのはそんなに悪いことじゃない。頂点に行きたいわけじゃないなら、底辺ですこしずつ自分なりに力をつけていくのはそんなにつまらないことじゃない。でも、こういうことは、自分だけが知っていればいいことだ。ここに書くのすら間違っている。

 

でも、小説を書くことはコケることではないと思っていたんです。ほんとうにそういうつもりだったんです。成長すら必要ないほどの塊が自分のなかにあって、それを吐き出すだけでいいはずなのに、そうすることができない。と、そういうふうに思っていたんです。成長を楽しんだりする余裕がないぐらい真剣に愛していたつもりでした。