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ぜんぶ嘘なので気にしないでください。

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四幕第一章 - 1 -


 一切の仔細を捨て置いて、分析士・キス・ディオールその人が音信を不通とし行方を完全に暗ましてから、既に三ヶ月が経とうとしていた。
「本当にあの人は勝手だ」
 思いがけず宙に放られたその言葉は、自分で思うよりも大きくなって響く。このままあの人にも聞こえたらいいのに、と思いながら、ストアは机上に据え置かれたままの円形の不思議な置物を見やった。
 それは不思議な色合いをしていた。青のような緑のような、黒々とした艶感ある材質。常に表面で煙が吹き上がり、かつそれが収束している。これはガイアというのだ、とキスは言った。
「ガイア?」
「ああ、星のことだ」
「こんなに小さいのに」
 そのあとキスは、数日にわたりその星を見つめ続けていた。日に透かしてみたり、手のひらで転がしてみたり、あるときは犬に食わせていることすらあった。いったい何なのか分からないが、色と質感を常に変化させる美しい宝石のようなのだから、もう少し大事に扱えば良いのにと投げやりに考えていた。
 ――その、翌日のことである。
 キスが唐突に、姿を消した。また例のごとく、突然体が小さくなったり犬になったり、あるいは置物に変化したりしたのかと、部屋中をあさってみたが、魔術の残滓を見つけることは出来なかった。何かしらに変化してしまったのなら、変化できなかった「なにか」が現場に残るはずだ。体が小さくなってしまったときにはシルクハットだけが中途半端な大きさで転がっていたし、犬になったときはもっと簡単で、服が一式残っていた。
 であれば単純に遠出したのかとも思ったが、外套は玄関横に掛けられたままだ。これを酷く気に入っているあの人が、置いて旅に出るわけもない。金庫の中を覗いてみると、一ガラットも減っていなかった。さすがに無一文で出かけるはずはない。というかここの金を持っていかれていたら、来月の家賃が払えなくて困るところだった。
 いったいどこにいるんだ。
 と思いこそすれ、ストアはもう大人なのでそんなに心配はしていなかった。まあ、自分でなんとかするだろう。そのうち帰ってくるだろう。だから、今は今のうちしか出来ないことをしておこう、と前向きに捉えて一人暮らしを謳歌していたのだった、が。
「そのまま三ヶ月が経ったと」
「その通りです」
 憔悴しきった顔で頷くストアに対し、なるほどと返答するステッキを握った男は、リュエルだった。
 彼はキス・ディオールの友人で、その点だけ言えばひどく奇人なのだけれども、本質的にはとても良い人だ。いつも唐突にキスを訪れ、ストアにも土産をくれる。今日も少し珍しい花束をくれた。初めて出会ったときの年齢が低かったからか、今でもストアのことを子ども扱いする数少ない大人の一人だ。(この世界では魔術士はその早熟な特性上、実際の年齢よりも精神的に成熟しているものとして扱われることが多い)
「さすがに心配だな。どこに行ったんだか」
「春の半ばに消えたんですけど、もう夏が終わろうとしているんですよ。いったいいつ帰ってくるつもりなんだ」
「きみ、仕事はどうしてたの?」
「いつも通りやっていましたよ。あの人がいなくなったから困ることといったら、三軒隣のテディのお婆さんの言うことが分からないぐらいです」
「彼女の言葉は特殊だからな」
「ええ、此間なんて、僕の顔をみて不思議に笑い出したので微笑み返してみせたら、次の瞬間泣き出されたんです。きっと僕は悪いことをしたんでしょうね、生涯理解できそうにありませんが」
「ああ、きっとそうなんだろうな。なんだか目に浮かぶようだ」
 リュエルが乾いた笑いを残して、紅茶をぐびりと嚥下する。
 コトコトと今朝温めた鍋が音を鳴らし、遠くからは鴉の鳴き声がした。吉兆だ。うららかな木漏れ日が、窓枠に反射して拡散的に室内に入り込む。美しい光のダンスを眺めていたら、どこかから子供の声までするようだった。
 酷く和やかな午後だ。
「こんな世間話がしたいわけじゃない」
「同感だよ、ストア。まあ、と言っても僕もキスの行き先に心当たりはまったく無い。とはいえ、一日二十六時間(註:この世界では、一日は二十六時間に値する。「一時間」という単位も厳密には違うのだけれど、混乱を減らすために訳で対応することとする)、常に一緒にいる君が知らないというのであれば、おそらくやつは何も手がかりを残していってないのだろう」
「もしかしたらあなたと一緒なのかも、とも思ったんですが」
「違うな。まあ、手紙が途切れたことは不思議には思っていたけれど」
「……実は、先ほどもお話したところですが、一つだけ手がかりのようなものがあるのです。解析の仕方も分からず、次につながる鍵も示されておらず、何も頼りになりませんが」
「あの宝石だね。球の形とは不思議だ。ガイアというんだったか」
 リュエルは立ち上がり、引き寄せられるようにガイアへ寄ってその光のなかを覗き込んだ。ガイアはきらきらしく、光をうまく反射して輝く。リュエルはしばらくの間、ガイアを上から下からと、丁寧に観察して見せた。そういえばこの人は学者なんだった、と今更ながらに思い出す。観察と研究と仮説設定が何よりも大好きな類の人間なのだ。
 やがてリュエルは、証明終了とでも言うように明朗に回答を告げた。
「これは鍵ではなく、鍵穴なのかもしれない」
「どういうことです?」
 謎かけめいた語り口に、ストアは一抹の不安を覚えた。キスならいざ知らず、リュエルは何の根拠もなく人を不安にさせるようなことを言う男ではない。
「つまり、さまざまな謎を解き明かし、その答えをもって最後に開くのがこの球、という感じがしているんだ。だからこの球を穴が開くほど見つめても、おそらく何も出てきやしないというわけさ」
「でも、それ以外に手がかりはないんです。……ああ、彼のことが心配なのか、そうでないのか、だんだん分からなくなってきました」
「まあ、分からなくはないよ。しかし、奴の若いときにはね、もっと無茶なことをしたものさ。今回が初めてというわけでもない――と言ったって、君にとっては初めてなんだから、とても心臓がもたないだろうが。それにね」
 唐突に言葉を切ったリュエルに、不安が募る。彼は普段、言葉を切ったりしないのだ。思わせぶりなことなどしない。
 それゆえに、彼の今日の話しかたは不思議だった。
「はい?」
「ストア。実は、すごく言いにくいんだが」
「なんですか?」
 悲報、もしくは訃報を告げられるような、後ろ暗い気持ちがした。自分はいったい、何におびえているのだろうと、恐怖している自分そのものすら怖い。
「君に、朗報なんだか悲報なんだか、分からないが、この報告をしなければならないことを、僕は光栄にも不幸にも思うよ。実はねストア、君の師匠が呼んでいる」
「師匠というのは、工房の?」
 魔法使いの弟子は、師の名前を直接呼ぶことができない。
 キスではなく、工房の師匠を指していることは明白だったけれど、念のため確認することにした。
「ああ、そうだ。キスは君の師ではなく、友であり分析者なんだろう?」
「まあ、本人はとりあえず、そうだと言っていますね」
「ハハ、冷たいことだな。……さて、そろそろお暇しようかな。聞きたいことは聞けたし、君が喋りたいことは喋れたはずだ。僕も伝えなければいけないことは伝えられた。もうひとつ僕から君に個人的に言いたいことがあるとすれば、まあ、元気出せよってところかな」
「えっ、もう帰るんですか?」
 恨みがましい口調になってしまったけれど、仕方ないだろう。久方ぶりに出会った話の通じる相手なのだ。この部屋に一人きりは意外にもさみしい。家が広すぎる。
「まあまあ。師匠の話を聞けば、そんな悠長な不安や悩みもふっとぶはずさ」
「僕の師匠がそんな幸せをラッピングしてプレゼントしてくれるとは、とうてい思えないのですが」
「えっ、幸せ?」
 リュエルは一瞬、時が止まったようにぽかんとして見せた。おかしい、とストアは思う。何か不可思議な、ストアにとって不都合なことが起きている。
 リュエルがぼうっとしていたのはごく短い時間のことだった。彼はその人好きする顔を崩して、ハハハと笑った。
「すまない、すまない。成長した最近のきみは少しだけ大人になって、すれていたからな。いや、君がもともと純朴で善良な人間なのだということを忘れていたんだ。いいかい、君が今の不安を吹っ飛ばすのは、君の師匠が幸せをくれるからじゃない。君の周囲にいる大人が、少しでも安らぎを持ってきてくれたことがあったかい? ――君の不安がふっとばされるのは、君の師匠が、より激しい嵐を持ち込んでくるからさ」
「嵐ですって?」
 ストアは自身の浅はかさを知り小さく呻き、リュエルが先ほど贈ってくれた花束を見つめる。やけに奇妙な取り合わせだと思ったのだ。メリッサの葉に、ニワトコの飾り。中央にひそやかに咲くアルメリアの花。
 ――どれも、花言葉が、『同情』。


「弟子、ですか?」
 ぽつんと呟くように発したその言葉は、まるで行き場をなくしたように宙をふらついているように見えた。今日はやけに、自分の言葉が置き去りになる。
 なんだか現実味のない、ふわふわとした感触が起き上がる。慣れないことをするときは、いつもこうだ。
 師匠は右手にある羊皮紙をくるりと回しながら、いつもどおり、ストアには一瞥も与えずに話を続けてみせた。
「そう、来週、朝一番にここに到着する。初日は手取り足取り教えてやりなさい」
「あの、出来る気がしません」
 早めに切ってしまおうと素直にそう言えば、眼鏡の奥の水晶玉のような瞳がぎょろりと動いた。
「ストア。確実な成長を確約して、弟子を持つものなどいない」
 叱られている、と気づいて目を伏せるも、次の言葉が出てこない。なんにせよ自信が無いものは、無いのだ。
 弟子を持つほど偉くなったつもりも立派になったつもりもない。ついでに言うと、今はキスもいない。
 ……はあ、と嘆息をつく。
 結局のところ、キスがいないから嫌なのかもしれないとも思う。彼がもしいま隣にいたら、絶対に「やれ」と言っただろうし、ストアはそれに従ったような気もする。
「キスは僕を迎えにきたとき、自信を持っていました。任せろと言ってくれていて」
「君の師は私だよ。あいつは分析士、少し違うのだ。私が君の将来について、何か一つでも確約したことがあったかね」
「……ありませんけれど」
 工房に初めて訪れた朝のことを思い出す。霧は深くたちこめていて、何処かから鴉の鳴き声がしていた。とんでもないところに来てしまったのではないか、という底冷えした恐怖と不安とがぐるんと体のなかで回る。単純に手先も冷えていて、冬の初めのことだった。
「自分の年齢を思い返したことがあるか? 工房を出てから、君はもう十四年にもなるのだぞ。カリトやキーラがすでに何人弟子を持っているのか、君は数えたことがあるか」
「ありません……」
 確かに、客観的な視点も交えて冷静に考えると、少し甘いことを言い過ぎているような気もする。魔術士でなくとも一人前とされる年齢まで、ストアは来てしまったのだ。そもそも杖を得た時点で失われるはずの周囲からの寛容の目が、たまたま『最年少術士』だったがためにそのままになり、継続して十年が経った。大人になるときが来るとしたら、それは今日ではない――もうずっと前、十四年も前のあの日に、訪れていなければならなかったのだ。かなり引き伸ばしたほうといえるだろう。
 ストアは深く頷いて、師の顔を仰いだ。覚悟を決めなくてはならない。
「やります。その子の名前を教えてもらえますか?」
「ああ」
 師匠はそこでようやく杖を持ち、何か迷うようにして髭を指の腹でいじる。
 ――迷う?
 いや、師は迷わない。そのはずだ。嫌な予感がする。
 そうして、訪れる。
 ストアにとって、第二の天啓が。
「彼の名前は、メロ・ディオール
「メロ――なんですって?」
「聞いたことがあるような語感と苗字だと思うが、君の予想は外れていない。自分であとで占うといい。ただし答えを先に教えておくならば、君が兄と仰ぐあの子の、三親等内の血縁者だ」

 

四幕第一章 2 へ続く


「だれとでもどっぷり仲良くなる必要なんてありません」
「君にはどっぷり愛する相手がもういるから、ということかな?」
「いいえ。僕だけの話ではなくて、誰にもいつでもどこででも、誰とでも仲良くなる必要なんてないのです。そんなふうに思う」
「そうか、でも君はどっぷり愛する相手も持っている。そうだね?」
 しつこいな、と思ったが、相手がリュエルなので、邪険にしようとは思わなかった。
 ストアは腰掛に座りなおし、掛け布を引き寄せてから、杖を一振りする。薫り高い紅茶がポットごと現れた。
「――今日はずいぶん、僕を困らせたがるんですね」
「私が君に好かれていてよかったよ。今日私は、君にまた一つ天啓を下さなくてはならない」
「なんでしょう? あなたの言葉はいつも僕にずっしりと響くんだ」
 リュエルは薄い唇を三日月のようにしならせる。ストアの出した紅茶が彼の唇の乾きをいくぶんかましにした。
「君はあの分析士から独立しなくてはならない」
「依存しているつもりはありません」
「もちろん。私は君に診断を下すつもりはないよ、医者ではないし、魔術士でも、ついでに言うなら分析士でもない。でも君はそうすべきだと私には分かる。これは忠告ではなくて天啓なんだ、ストア。君は一人で立たなくてはならない。もちろん、君のことを赤ん坊だなんていうつもりは毛頭ないけれど。そうだな――なんなら――あいつのことを忘れるんだ」
 リュエルの言葉は、いつもストアを驚かせる。その唐突さが、ストアは好きだった。キスもすぐにストアを困らせることを言うけれど、リュエルのそれはまた違う。どこが含蓄に満ちていて、あたたかく、やさしい、そして理解がしやすい。
 しかし今彼が言ったことは、どうにもストアの腑に落ちない。そしてただ困惑だけが、紅茶とともにこの部屋と、そしてストアの体内を満たしていく。不思議だ。耳だけが冷えるようで、ストアはティーカップであたためた指で耳たぶをもんだ。
 そして、一言だけ返す。
「どうして」
「君はそう言うだろうと思った」
「では、きっと答えもあるのでしょう。教えてください――どうして?」
「答えを知りたいか。理由を知りたいか。原因を分析したいか。状況を分析したいか。世界を変えたいか、認識を変えたいか? まあ、いい。教えよう。これは大いなるオマケだ。――君は本当はキス・ディオールを愛するべきではないからだ。君の玉座には彼以外、できれば術士以外を座らせなくてはならない」
「……彼が、そう言ったのですか」
「言っていないけれど、私には言ってるように聞こえたな。やつではないけれど、やつのようなものが、そういうふうなことを言ってるように」
「聞こえたのですか?」
「私には何も聞こえないし何も感じられないよ、ストア。私は術士ではない。気脈を持ってはいない。そのことを忘れたりしないだろう?」
 ストアは目を伏せたが、そういう態度をとることすら失礼に思え、結局あいまいに視線を宙へ漂わせた。彼が、魔術を行使できないことをコンプレックスに感じていることはいまさら地の文にすら書くべきことではない。困惑した気持ちを整理しようと、みみず文字を空に描く。頭のなかでやっていたつもりだったのに、バチンと火花が出て、一匹の煤けたミミズがカーペットに落ちた。
「混乱しているようだね」
「術の抑制が苦手なのです。恥ずかしいことですが」
「私の考えでは、君たちの能力は、抑制する必要なんてまったくない。溢れて爆発して暴れて、そういうふうに使ったほうがきっといい」
「そうでしょうか」
「ああ、そうだとも。難しいことを考えるからキス・ディオールなんてものが生まれるのだ」
「……そうでしょうか……」

 

 

三幕四章に続く

愛してもらえるたびに、この愛はいつまで続くのだろうと思う。そんな乙女の心情にも似た自意識をかかえて、もう一年になる。

 

まいにちあなたが星を贈ってくださるのがありがたいのに、ログインするたびに安心するのに、なにか新しいものを出さなくてはと思いながら、わたしの指は動かず、けっきょく閉じ合わさった貝のようにしゃべれない。

良いものが書けるのはいつも過去で、わたしはわたしのいまいまの指先をまったく信じることができない。

 

書けば書くほどうまくなるなんてのはうそっぱちで、わたしは一文字書くごとになにかを失う。それでかまわない。わたしの内側に凝ったままいるよりも、現世に顕現しだれかのこころを少しでも震わす、そういう体験を行わせたほうが、わたしの心臓からうまれた文字にとってもやさしい。

 

失ってかまわない。外れていてもかまわない。でもどうしてわたしは書けないのだろう。この小説を書いていたわたしは、あの小説を書いていたわたしは、わたしはいったい、なにを思っていたのだろう。

 

 

みたいなこと、あまり書かれても困るだろうなと書かずにいたし、そもそも美しい文章でもないから敬遠して、とにかくわたしの指先にリズムが戻るのを待ち焦がれていたのですが、なかなかそうもいかないので、うーんと、しかたない、わたしはこのまま、いらない文章をいくつか書き散らかして、最終的にできたやまのなかから薔薇をさがす作業に、戻ろうと思います。

 

こんなはずじゃなかったんだけどなあ。

それは君が女だからだ、だから君は何かそういった幻想にすがりつきたいと思うのだ、とあなたは言うから、わたしは圧倒的な不理解をさびしがった。

理解してもらえないことほど悲しいことはなくて、そしてこれ以上にどうしようもないこともない。愛してもらえないこと、傷つけられることとは、圧倒的に違う。理解できない、というのは、君と僕とは違う世界にいるようです、さようなら、という善意の別離の言葉なので、覆すことはどうしてもできない。

 

あの白い塔が、今の私には懐かしい。

塀のなかみたいに窮屈なあの場所をうらんだこともあったはずなのに、今では郷愁の念がつよい。あの枠のなかに、わたしは青春を閉じ込めてきてしまった。原稿用紙のなかに描いた夢のはなしが、形を得る代わりに自分の手の届かない場所へと消えていってしまうのとおなじで、わたしは書くことによってなにかを失う。あるいは失いつづける。

だからこそ。喪失を愛する者にしか物語は書けない。不幸な者にしか書けないのではない。失いたいとつよく願う者にしか、真に書くことはできない。

 

きみはどう思う、と聞かれることが多い。たぶん平均的な二十代女性よりも多く、わたしは他人に「きみはどう思う」と聞かれている。

その質問はおそらく「きみは何も教えてくれない」というある種の不満の裏返しで、だからわたしはいつもこう言う。「いいえ、ほしいものなんて、なにひとつありません」。

 

あなたは欠損を嫌がる。それはあなたが生まれてからきょうわたしの前に立ち、わたしと目を合わせるそのほんの瞬間のところまで、あなたが強者であり続けていたからで、今日のあなたの困惑はきっとあなたのせいではない。あなたは怠惰を怖がり、栄光を喜ぶ。それがまるで本能で定められてるというふうに当然に。でもね、それは間違っている。

わたしは呪いのことばを吐く。あなたにとって、わたしが紡ぐすべてのことばは呪いになると知っている。もうずいぶん前から知っていたよ、ねえ、そんなに幸せだって自分を信じていたところから、「おれ」を失うってどんなかんじ?

 

わたしのことすき? って聞いたとき、あなたの答えは定められたひとつしかなくて、それ以外を答えたところでわたしは「はじまりの街」の村人のように結局おなじ質問を愚直に繰り返すだけ。ですので、答えは決まりきっている。ねぇ、わたしのことすき?

夢にも同じような局面がある。猫をおもわせるまんまるの瞳をわたしに向けた「夢」の子どもが、わたしに聞く。ねぇ、わたしのことすき? 「はい」も「いいえ」もいちおう選ぶことができるけれど、「はい」を選ばないかぎり、そして選び続けないかぎり、時は一秒たりとも進まない。永遠に昼のまま、初期装備のアバターで、わたしは「いいえ」を繰り返したいと思うことがときたまある。

好きでもない相手に愛情をふりまく女の気持ちは分からなくても、かつて愛してくれていたひと、そしてもう自分からは愛していないひとにたいして、ひょっとしたらその気持ちを一方向的に勝手に守ってほしいと思うことはある。誓いはどんな場合でも永遠であってほしくて、断続的なもの、あるいは断ち切れて死んでしまったような絆は、もはやかつて「存在した」ことすら否定したいほどの憎しみの源になり、ぎらぎらと質の悪い油のようにてかって依然のこり続ける。

おなじ質問をすることはもうできない。つまり、ねぇ、わたしのことすき?

結局のところわたしたちは、自分が納得するように生きてゆくしかないのだ。自分しか愛することができないのと同じように、納得も尊厳も安心もそして許しですら、自分から自分に与えるほかない。つまり、答えられるようにすること。じぶんのことがすきですか、という自分からの問いに。しかし、自分のことが大事なひとは多くいるのに、好きで好きでたまらなくこの世で一番よい人間であると思うとこたえる人は、たぶんぐっと少ない。

きみは私を傷つけるものにしか興味がない。

悪意をさかさまにして、きみのために口実を探し、私は剣をとる。

大切に育てていた芋虫がサナギになり、深い眠りから覚めて羽化したとき、私は”こんなはずじゃなかった”と思った。

 

私が愛していたのはぶよぶよとだらしない肉つきをした芋虫のイモ子だった。斑点のある緑色の皮膚も、カフカの小説を思わせる億劫そうな体の動きも、よく葉を食べる食いつき具合も、すべてがすべて大好きだった。

 

しかし彼女は唐突に”さなぎ”の形態に入り、硬直し、そして羽化した。虹色の羽を得て美しく風を纏う。それはひどく美しい光景だと、間違いなくそう言えるのに、どうしてかジャムがスコーンにしみわたるように広がる私の諦念のこころ。

 

そうたとえば、コンクリートの照り返しが白く眩しい九月の始まりに、新宿西口改札前で、ずぶ濡れの傘をもったスーツ姿の君とすれ違ったときの絶望にも似ている。

 

 

僕の夢は、もう叶わないのかしれないと思った。

そう気づいた瞬間に、僕は「夢が叶わないかもしれないと思ったときに読む本」という安直なキーワードでGoogle検索した。

愚かなことだ。どうせ何も出来ないくせに、最後には結局僕は本に頼る。どうしようもない愚かさだと思った。

 

アドバイスが必要だった。汎用的ではなく、親しみがあり、僕にカスタマイズされた正しい助言が。欲しいものは分かっていたのに、それを誰に求めればいいのかは分からなかった。

 

とにかくたくさんの本を読み漁った。僕は本に育てられ、本が第三の親のようなものなのだから。

もし明確な答えがたとえなかったとしても、きっと本は、文字は、せめて僕の役には立とうと努力してくれるはずだ。だって、彼らは僕の親なんだから。

 

 

 Personalization(自責化:自分が悪いのだと思うこと)、Pervasiveness(普遍化:あるできごとが人生のすべての側面に影響すると思うこと)、Permanence(永続化:あるできごとの余波がいつまでも続くと思うこと)。

 

 

ざわざわ。

遠くの音がまるで耳の中で鳴り響いているような感覚になる。幸せはどこにもない。この世界の果てまで探しにいったのに、ついぞ見つけることはできなかった。わたしは墨汁を滲ませたようなぼんやりした世界のなかでひとり、極彩絵具を探す旅に出て、そして単調に失敗した。愛はいい。かならず成功する。むろん、交際の申込みや結婚の事情に失敗することはあれど、ただ恋をする、それだけならば、決して間違えることも失策することもありえない。

苦手なことがいくつかあって、たとえば「それって私のことでしょうか」と聞くこと。

 

発言の内容、前後の雰囲気、なんとなく私のことかもしれない、でもあんな暗喩的な言いかたで指摘したりする人かしら。どうしても言いづらくて、気づいて欲しくてああいうふうにしているのかも。ううん難しい。でも、私は「それって私のことでしょうか」と聞くことが苦手なので、聞かない。

でも、対面ではどうしてかやりやすいような気がする。何度かやったことあるよ。「すみません、それって私のことでしょうか?」って。なんなら微笑みながらでも言えた。

 

 *

 

機嫌のわるい人が、わたしが話しかけるときにだけ、機嫌が悪いことは明らかでありながらも、なんとなくおさえてわたしにつとめて優しくしようとする。わたしはそれに気づかないふりをする。どうしてすこしイラついてらっしゃるんですか、なんて無粋なことは聞かない。

 

 *

 

なぜわたしがこれほど祖母のことが気にかかり、忘れがたく思うのか。もちろん祖母を愛しているから、というのがその問題への答えのひとつではあるのだろうけれども、もうひとつ「わたしが祖母を愛していることを、祖母がきっと知らないから」なのではないかということにも思い至った。

先日、友人らと二泊三日で旅行に行った。泊まった宿の女将さんは、祖母にあまりにも似ていた。みかけというよりも、笑い方がまったく同じで、深夜に二時間遅刻してチェックインしたその宿のふるびたカウンターのまえで、わたしは胸を締め付けられるような苦しさを感じた。女将さんはわたしを見て、お疲れになったでしょうと笑い、ほんの少し曲がった腰で階段に向かった。わたしはなにも言わずそのあとをついていった。

ふるい茶色の階段、さすられて滑らかになった木製の手すり、ぷんと香るにおい、すべてがどことなく祖母とつながっているような気がして、わたしは、古いわりには割高なこの宿に決めてよかったと思った。料理の味付けまで似ていた。