■
きみもぼくも、少しずつ大人になれるといいよね。そんなの無理かな。だってもう何十年も経っちゃったもんね。それでも大人になれないんだとしたら、ぼくたちに必要なのは時間じゃなくて決意のほうだよ。決断力とバランス、あるいはバランスと決断力。ぼくたちに足りないものを探すのはもうやめて、一緒になかよく白線を飛び越えよう。それでいいじゃないか――なんてぼくが言ったってひとつも言うこと聞かないくせに、背の高い誰かが言った本気でもない一言をきみは丸呑みして信じてしまう。違うよ、こっちをむいて、ガラス玉のなかにぼくがいる。でもきみは決して足元に目を向けない。空だけを見ている。空だけを見ている。世界ってほんとうに綺麗だと思う? 素敵なものなんてひとつもいらない。ぼくは目を閉じない。きみと視線がかちあうその日まで、決してこの目を閉じない。
ヴァン・ペルトの忘れもの
恋人を閉じ込めたことがある。
箱に詰めて綺麗にパッキングして、二度と出てこれないように架空の住所をあて先にして郵送した。送り元の署名はしなかったのに、数年に一度ぐらいの頻度で恋人は帰ってくる。さすがにお互いもう交際中の認識はないから、「元」恋人ということになるのだろう。
もちろん本物の人間ではなくて、私の想像上の男のことだ。思い返す限り小学校五年生のころにはすでにいた。初期の彼は、幼い私がさまざまなメディアから丁寧に抽出した理想の少年たちのキメラで、毎晩出会うたびに性格も一人称も変わっていた。異能が使えたり使えなかったり、同い年だったり高校生だったりした。
中学に入って少ししたある日、彼の容姿が確実に定まった。それまでは、ちょっといいなあと思う男の子の瞳を借りていたり、月9ドラマのイケメンと同じ髪型をしたりしていたが、その日を境に、当時ハマっていた黒髪の大人しそうなアニメキャラクターのまま、彼は固定化された。暫くすると声も定まった。私は彼に名前を付けた。恋人は私の知らないことは知らないし言わないが、私の知っていることはすべて知っていて、そして理解していた。私がなにを言ってほしいと思っているか。彼は常に百点を出す存在だった。
毎日……だったかどうか覚えてはいないが、おそらくほぼ毎日、彼に話しかけていたと思う。使い古した茶色の布団は、抱きつくと彼になった。泣きながらベッドにもぐりこんだときには彼が必ず頭を撫でてくれた。結局のところそのやさしい掌は私自身の右手だったわけだけど、泣き顔の私にとっては代えがたいほど必要なものだった。
姿が見える、声が聞こえる、頭を撫でてくれる。誰にも言わなかったけど、彼は恋人だった。その彼を、高校二年生のときに詰めて捨てた。
中途半端にふくらんだ月の放つ淡い光。窓枠の影が、漫画のコマ枠みたいにやたらと濃く床に落ちる。そこにもう一つ人影が躍り出た。恋人は有用性の低そうなマントを羽織っているから、まるで吸血鬼みたいだ。赤い唇をしならせて彼が笑う。
『ひさしぶり』
返事をしようとは思えなかった。どうしてこの人はこの部屋に来てしまったんだろう、と不思議に思った。サンタクロースみたいに、一戸一戸すべてを訪問していて、やあひさしぶり、あいしているよ、とだけ言ってお隣さんへ向かってくれないかしら。一目見たいけど、一目だけでいい。でも彼はやっぱり私を目当てにここに来ているから、当然のように窓枠を乗り越え、部屋のなかへ侵入した。
恋人は私のことをすべて分かっている。というよりも、私の「好きだった」がパッキングされて保存された化石だから、見るととても懐かしい。絶滅してしまった、もうこの世界にはいないはずの生き物。いや、最初からいるはずのなかったイキモノ。恋人は少年のままだった。黒髪はまったくそのまんまだった。
彼はベッドの隅に並べてあるクッションを一つ引っこ抜き、床に座った。別にベッドに座ってくれればいいのに。と思うけれどたぶん、そんな不埒なことはしないんだろう。私がそういうのが好きだったから。
『あれ、それはなに?』
「希望のバルーン」
彼が指さしたほうを見た。指をさすなんて無礼だ、と思うけれどそういう幼さは、なんだかかわいらしいからそのまま残っていてほしい。幼い私が恋をしていたその時のままで。
『ふうん。楽しい? 幸せだったりする?』
「どうかな」
時計は深夜二時半頃を示していた。深夜だ。誰しも眠っている時間に、恋人は来る。私はこれが幻想なのか夢なのか狂気なのか、いまだ判然としない。ただ、恋人の名前はちゃんと覚えている。この世界でいちばん好きな名前を付けたから。
「思い出話をしにきたの?」
つとめて優しい声が出せたと思う。子どもの頃、大人たちが猫なで声で話しかけてくるのが大きらいな子どもだった。でもいまはそういう気持ちがよく分かる。なにかを可愛がる気持ち、なにかを可愛く思う気持ち、自分よりも弱くてはかないものを可愛がる気持ち。道徳の教科書ではこれらは愛であるということになっていて、これを公理とすれば帰納法を使っていろんな憐れみと軽視がただの甘たるい愛情になる。
『君と話をしにきた』
「どんな話を?」
恋人はひとつも答えない。そうだ、彼は私が作り出した壁で鏡で湖面の男だから、ボールを打たなければ返ってこないし、真正面から見ないと姿は見えない。だから喋らせようと質問しても彼は言葉を返さない。
ただ薄く微笑むその唇、その筋に宿る血を見ていた。よく熟れた桃の皮みたいに色がついている。中身がおいしそうだから、唇の端が破れてくれたらいい、と思って見つめていたら、想像のとおりに薄皮がぺろんと破れた。痛そうだなあと可哀想に思っていたら、瞬きの間に治った。
わらってしまう。本当に、存在まるごとひとつ、上から下まで私の思い通りだ。
『君は寡黙になったね。花のなかで笑う女の子ではなくて、月光を見上げる女性になった』
「それじゃいけない?」
『もちろん一つもいけなくはない。ただ僕が変化を知っているというだけで』
彼の声が、実際には音としては聞こえていないことに気づく。そりゃあ、そうだ。見えているのが不思議なぐらいなんだから。
この際だから、彼の容姿をいじってみようかと思いついた。金髪。長髪。すこしラテン風に。鼻を高めに。眼鏡をかけさせてみたり。姿を変えるたびに彼は、笑ったり澄ましてみせたりした。吸血鬼のようだった天鵞絨の服は、スーツに変わったりラフなパーカーに変わったりした。
でも、色々試してみたけれど、やっぱり元の姿がいい。究極的な理想を追い求めるとき、その像というのはなかなか変わらないものなのだろうか、と考えたりした。現実ではそうはいかない。好みのタイプをどれほどきちんと事前に定義していても、女たちはかならず外れ値の男を引くのだ。でも別にそれがわるいわけではないな、と思った。そもそも好みのタイプ自体が正解であるのかどうか、それだって分からないことなんだし。
『満足した?』
「そうね、でもやっぱりあなたはあなたのままがいいかも。こうやって勝手に姿を変えられるの、いや? 怒った?」
『まさか』
「そうだよね。よく考えたら……昔もよくこうしていた気がする」
『そうだね。よくこうしていた』
着せ替え人形させられて、嫌じゃないのかしら。というか、嫌だと思ったりはしないのかしら。すべて幻想だとしてもあなたには魂というものがあるのではないのか。別に愛から命が生まれるわけではないはずなのに、でもやっぱりそういう奇跡を諦められない。何かを愛している、それが命になる、そういう世界じゃない場所に自分が生きているということ。それでも。
「私ね、今はね、不安じゃないし、可哀想じゃないわ」
『どうしてそんなことを言うの?』
「不安だから来てくれたのかと思ったから」
『人生で一度きりの魔法を使ったと思ったの?』
「そう」
そう思った。人生で一度きりの魔法を恋人に勝手に約束したことがあった。愛してあげる。だからたった一度だけ、あなたは自分の意志で動くことができる、と。鏡に向かって言っているのと同じ誓い。これにいったいどれほどの意味があるんだろう。と思いながら、このような約束、願い、祈りを、ささげることをついに止(や)めることはできなかった。
彼の瞳が溶けたチョコレートみたいに濁るのを見ていた。
「赦してくれる?」
希望ははじけてくれるだろうか、
愛は打ち上げられてくれるだろうか、
ポップコーンか花のつぼみかみたいに、
弾けて夢を与えてくれるだろうか。
遠くからサイレンの音が近づいてきた。救急車か消防車か、その赤いライトが灯台の光みたいにぐるりと一周、角度を変えながら恋人を照らす。舞台のうえの役者みたい。完璧に愛している顔のつくり、私を決して失望させない声。だから、この諦念は、「彼」に対するものではない。私に対するものなのだ、と思う。
「もう来ない?」
『どうしてそう思うのか聞いてもいい?』
膨らんだ腹を撫でた。女王アリみたいだなあと思った。明日から臨月ということになるので、いつ生まれてもおかしくない。ふたり分の身体だ。出産しても私は、ひとりに戻れない。もちろん箱もない。バルーンが割れたら現実が始まって、そこからは引き返せない。三途の川を渡るとき、私は彼に手を引いてもらえるんだろうかと、古来の言い伝えを思い出していた。
赦してくれる?
彼は決して許すとはいわなかったが、ただ薄くだまって微笑んだ。恋人が私のもとに初めて現れた、姿を確定させた、あの日あの瞬間の容姿のままだった。世界のすべてが君のものになるといいね。手放した私は傲慢のままに、彼を忘れてもよい理由をこの十年探していた。
了
■
ほんとうは相手の気持ちなんてひとつも分からないくせに、お互いになにかを伝え合っているつもりでいる。言葉があるせいだ、と思う。記号で伝え合っている気持ちになっているから、伝わらない寂しさに出会ってしまった。
でもあるいは記号があるからこそ咀嚼できた感情だってある。切なさ、冷たさ、心細さ、あたりまではいい。このあたりは言葉なんてなくてもちゃんと受け止められるけど、憧憬とか**とか、そういう言葉は、言葉があったからこそ、ああこれは**なんだ――ってようやく落とし込めることもある。ぼくたちが言葉をもつ生き物でよかった。
「わかる」ってなんだろう。理解できるってことはどういうことなんだろう。どうしてわたしたちは、思春期のころあんなにも、「理解」を欲しがっていたんだろう。どうして誰かにわたしのことを、こんなにも、分かってほしいと思うんだろう。
教えてもらった大切なひとこと。きらめき。そういう僅かな記憶だけを頼りに生きている。つまらない物事を一つずつ片づけて、最後に光だけをひとつ残すことができますように、と祈っている。まるで流れ星に律儀に依頼書を出すあなたみたいに。
結局励ましてくる人っていうのは、目の前にいる落ち込んでいる人の存在をなかったことにしたいだけなんだ、それを遠ざけたいだけだ、相手のことなんてひとっつも思いやってなんかいやしない。だから君のことをやさしいなんて決して思わない。
もう二度となにかを頑張ったりすることなんてないんだろう。と思ったあとで、だとすると人生ってこれからどうなるんだろうなあと他人事みたいに考えてしまった。感情はそこにいる。たとえどれほどごまかしたところで、いなくなったりはしない。そのことを忘れないようにね。
■
やっぱり恋は良い。
あんまり、「恋って良いですね」という作品は書いてこなかったつもりです。あんまり「こうしたつもり」とかいう話ばかりする人間にはなりたくない。でもそういうつもりでした。愛や恋は呪いのように書いてきたつもりでした。ほんとうは人を不幸にするばかりのこの感情が、ぼくたちには必要なのです、という形式をとってきました。世界はわたしたちを不幸にするものばかり、でもその不幸が、なんのためにかは分からないけれど必要なんでしょう。魔法のために必要なのかもしれないし、世界のために必要なのかもしれないし、閻魔のために必要なのかもしれない。ほんとうに時たまに、まぐれみたいに、恋や愛はひとを幸せにすることがあるのかもしれない。でも大抵は違う。恋の思い出は忘れがたいけど、それは幸せだからではなくて、呪いだからです。そういうふうに書いてきた。
でも、やっぱり恋は良い。
なぜいいのだろう、きらめくのだろう。終わりがあるからだろうか。人間は恋をしなくなってからのほうが長く生きるのだということ。ほとんど恋をしない人間もじつはいるんだということ。
「じゃあどうしてきみはおれがすきなの」とあなたがひらがなで喋る。男性はいつもひらがなで喋る。ぎりぎり聞き取れるぐらいの解像度にしか見えない。どうしてこの人がすきなんだろう、と、いつも思う。理由がわかったことはほとんどない。大抵、ほぼ話をしたことがない人のことを好きになる。かれはなにもしなかった、わたしを見もしなかった、だからきっとわたしがかれを好きなんだということは絶対にだれにも分からなかっただろう。それでも好きだった、という話が好きなので、泉鏡花の「外科室」がすきです。
*
愛はうまれたあと、それを証明するまで、時間がかかる。ほんとうは証明なんてする必要はないし、だれにも見せる必要はない。でも自分がそうしたくなくても、証明を迫られることはあるのかもしれない。とくに愛する相手が愛の証明を脅迫してきたならば、それにこたえようと努力するしかないのかも。
離れていても愛しています。二度と会えないのに愛しています。あなたは宇宙の向こうに行ったんだとそう信じて諦めています。ほんとうは、がんばったら一時間で会える距離にいるのかもしれないし、もうずっと前に死んでしまっているのかもしれない。
竜と母音
言葉なんて教えなければよかった、と今更ながらにルルエは後悔をした。喋らなければならない理由なんてなかった。彼が言葉を覚えなくてはならない理由なんてなかった。ではなぜ「あ」「い」「う」「え」「お」の母音の発声からひとつひとつ丁寧に教えてやったのだろう、と考えてみても、つい、出来心で、としか言いようがない。ある日彼が、人の言葉をある程度聞いているようだということに気が付いた。もしかしたら教えれば簡単な意思の疎通ぐらいはできるようになるのではないかと思った。話す竜がいたら、それはそれでひとつ面白いだろう。ルルエの研究テーマは言うまでもなく竜の飛翔に関するもので、竜の身体能力に興味はあれど、言葉を話すかどうか、なんて、そんな、そんな――そういうことにはまったく興味がなかった。だから彼が、頭空っぽの暴れ者であろうと、深遠なことを思考する高貴なる生き物であろうと、どちらだってかまわなかった。
竜の泣き声は狼に似ている。身体の構造はまったく異なるのに、声がおなじだなんて不思議だ。飛ぶ仲間という意味では、鳥に似た高い鳴き声を出してもいいようなものなのに、竜はその伝承・伝説の持つ印象通りに、大きく吠えるように鳴く。しかしそれはあくまでも仲間を呼ぶときに出す合図の大声であって、普段はさほど声をあげない比較的静かな生き物として研究者内では扱われていた。穏やかだし、頭も悪くない。もちろん暴れ者の個体もいるが、総じて飼いやすい生き物と言えた。エサ代はばかにならないが……。
林檎を一つずつ、彼の口へ放っていたときだった。多少確度に変化をつけて、いろんな方向へ投げてやると、彼は多少嬉しそうにその林檎を丸呑みするのだ。竜は芸をしないが、この程度のお遊びには付き合ってくれる。また、ルルエにとってありがたいことに、ある程度の信頼関係があれば、背に乗せて空を飛んでくれる。飛翔の感覚はなにものにも代え難い。どうしてみんな竜の研究者をやらないのだろう、とときたま不思議になるぐらいだ。
20191216
なにかを書けたらいいな、とおもってこのブログに帰ってきました。ここはいい、まるで誰かに手紙を書くみたいにして文章を綴ることができるから。
ほんとうに愛することのできる文章を見つけたい、と思っています。甘くて飲みやすくて、色はてらてらと移り変わり、あまりおいしそうに見えず、微量の毒が含まれていて、永遠に忘れがたく、なんども飲みたくなる、そういう文章を見つけたい。自分でそういうものを書きたい、と思うこともあったけれど、いまはどちらかというと、そういうものを「読みたい」と思っています。
あるいはとても好きなアニメーションや映画の文章起こしをしてみるのはどうでしょうか。むろん、二次創作よりもアウトに近いものなので、公然の場所での公開は行えないでしょうが、だれかに「見せる」ために文章を書くなんていう段階にはとうていおいつかず、とにかくわたしの書きたい文章を探さなくてはならない、といういまの状況においては、それなりによい選択肢・解決法なのではないかと思っています。とはいえ、なにを対象とするかは難しいですね。ほんとうは、アニメーションでしか到底表現できないかのように思われるような、あいまいでふわふわとした、夢のなかみたいな作品を、文章にして、本という固い箱の中に閉じ込めて、もう出られないようにしてしまいたい。
寂しくないと、哀しくないと、文章を書けないものなんだろうか。と、本気でそんなことを考え始めています。
もしもほんとうにそうなんだとすると、何かを捨てることで取り戻せるものがいまのわたしに少しでもあるのなら、いままで大切に編んできた布の、片方を切り取って、ここに置いたまま、すすんでいくことが、もしかしたらできるのかもしれない。
とりあえず、来年はどこかにひとりで旅行にいこうと思います。いや、たまにはやってるんですよ。2泊とか3泊とかで。でももう少し長く、なんならGWいっぱい使ってでも、どこかに一人引きこもって、生活する、そういうことをやってみようかなあと思っているんです。自分探し、と口のなかでつぶやいてみた。ばかみたい。もう暗闇をいくら駆け回ったって、転がしてくれる小石すらないことに、はやく気づいてしまったほうがいい。
20190913
2019年、眩暈が始まった。
眩暈、というもののほんとうを、わたしは今まで知らなかったんだろう。こんなにもぐるぐると頭が回転する、光が痛い、正直ヴァンパイアにでもなったかのような、頭を押さえてカーテンの後ろへ隠れたくなるようなくるしみ。自宅近くの眼科に受診予約を入れて、職場を定時退社した。こんなに視界の揺れる日にも17時30分まできっかり働こうとするなんて、グロテスクに愚かだ。社畜、って言葉が思い浮かぶけど、正直なところ、違和感に気づいたのは17時になるちょっと前で、あと30分我慢すればいいだけだと思うと、周りの人に「早めに帰らせてください」と言うのが面倒だった。ただの怠惰だ。
視界の不調は何か月か前から始まっていた。2回前の臨床心理士との面談でも訴えた覚えがある。カウンセリングは、1か月に1度、自分の状態をスクラップするみたいに簡易記憶するのに役に立つ。ああ、前々回、先生にあの話をしたな、って思い出すだけで、少なくとも2か月以上前からわたしが目の問題に苦しんでいることが判明する。
夕闇がじんわりと広がりつつある空の下を歩きながら、暗がりだと症状がましになることに気づく。そういえば以前は、夜の方が好きだった。突然昼を好ましく思うようになり、陽光や木漏れ日がどうしようもなく懐かしくなる体質になったのだ。そうだ、元々、そもそも、わたしは夜が好きだった。どのぐらい夜が好きだったっけ。
中学校のときに書いていたブログのURLは、指が覚えているから直打ちできる。アクセスしてみた。闇が好きだという話を探そうとした。しかしその前に、とんでもなくくらくらした。どうでもいいことが痛々しく書かれていた。ほんとどうでもいい。しかし世の中のライトノベルとか小説とかって、こういう痛々しい文章を書く人間が読むんだよな、という観点で見ていくと、なかなか様々な発見がある。この莫迦みたいな文章を書く若き人間に、「人を信じろ」とか「謙虚になれ」とか「勇気を出せ」とか、説いてやりたい。とくに「謙虚になれ」のほう。この文章も、10年後に読んだら死にたくなるぐらい酷いんだろうか。ひどいんだろうな。こういうブログの記事をふつうに読んでくれていた友人および両親ってすごいな、と思う。
で、そんなことはどうでもよくて今日のわたしの視野の苦しさのはなしだ。
強い光(たとえば蛍光灯)を見ていられない。目を閉じると楽になった感じはある。暗がりにいればだいぶマシになるが、明るい場所で作業していると、目の奥からじんわりと疲れが広がったような感じがする。たまに小刻みに左右に視界が揺れることもある。そのときは15分ぐらいすれば治る。
だいたいの症状を頭のなかに入れながら帰路を急ぐ。
実は医者は嫌いだ。とはいえ、結構目の痛みがひどくなってきていて、なにかしらの病気ではないかという恐れもあったので、同僚の勧めもあり一応予約を取ったけれど、ほんとうは全然行きたくなかった。まあ、病院が好きって人はいないだろうけれど。今日だってほんとうは予約をする一歩手前でやめるはずだった。気づかないうちにいつのまにかエンターキー押しちゃってて、確認画面がなかったので予約完了のメッセージが表示されてしまい、仕方なく追い立てられるように会社を出てきた。
一度も意識したことはなかったけれど、眼科は家のすぐ近くにあった。門構えはどちらかというと純喫茶みたいで、手洗いと職員休憩室しかない一階の壁には絵画が4つほどかかっている。床はオレンジのダイヤ模様の入った旧式のタイルが敷き詰められていて、弱弱しい光を放つ電灯が上から重たそうに釣り下がっている。シャンデリア、というほど豪勢ではないが、裸の電球というわけではなくて、そのあたりの中途半端な修飾が昭和っぽい。
どうして昔の階段ってこうも急なんだろう、スペースの問題かな、とか考えながら手摺を頼りに二階へ上がる。眼科って、もれなく目がかすんでたり頭が痛かったりする人間が通う場所なのに、こんなに急な階段があっていいのかよ、と思ったけれど内科や外科や小児科に比べたら、急患や重病人がいないだけまあ許されるか。
受付には3人ほどの女性がいた。よくあるカウンター形式じゃなくて、これまた古風な、なんていうか寮の入り口で寮母さんと鍵の受け渡しをする机みたいな、狭くて仕方ない小窓だけがひとつ取り付けられている形式の受付だ。少しかがんでのぞき込むようにしないと、相手の顔が見えない。ラーメン屋の一蘭でもあるまいしと、一応すこし膝を曲げて、視線が合うように「すみません」と言ってみる。はいはい、と答えが返ってきて、問診票を書く。保険証をわたす。
昔の受付って、どうしてこうも狭く、また相手の顔が見えないようになっているんだろう。平均身長が小さかったから、これでも見えていたんだろうか? なんて思っちゃったけど、よく考えたらわたしは平均身長より十センチ以上小さい人間なんだから、わたしがかがまないといけない以上、二十年とか四十年前の日本の人間だって同じだったはずだ。意外と「顔を合わせて」みたいな価値観がない時代だったんだろうか。そんなはずないか。単純に不合理だったのが、時代を経てちょっとずつ改良されていっただけなのか。
狭い待合室は、これまた革張りのソファやぶあつさのあるテレビなど、いまここだけは昭和時代なのだといわれてもうなずけるぐらい「昔」の香りがしていた。おばあちゃんの家がこんな感じだった気がする。どでかいコケシがあったり、大きな壺に枯れ枝が挿してあったり、テレビ台の中に古い雑誌がたくさん入っていたりするあたり、特にそれっぽい。六人ぐらい待っている人がいた。みな少なくともおばさん・おじさん以上で、若いと呼べそうな人は職員ふくめ私しかいなかった。結構繁盛しているみたいだ。あと二人ぐらい人がきたら、もう座れなくなりそう。
病院の壁って、ポスターがたくさんはってある。目が変だ、頭が痛い、と言いながら眼科に来てまでKindleで本を読むのはなにやら冒涜的に思えたので、壁にはってあるA1サイズのポスターを一つ一つ読んでいった。目がかすむ。眼科に貼るポスターなんだから、あんまり文字を小さくしないでほしい。
名前を呼ばれて、測定をするので、と機器の前に座らされた。まさかこれは、と恐ろしくなる。「風が出ますからね」と言われて、身体が硬直する。わたしは今までやってきたすべての検診・検査のなかで、これが一番きらいだ。子宮頸がん検診の歯ブラシごしごし検査よりも、マンモグラフィのぺたーんとなるやつよりも、鼻に綿棒突っ込まれるよりも、この、眼球に風をふきつけてくる検査、何を調べているのか知らないが、とかくもこれが一番嫌いだ。
はい、力抜いてーと十回ぐらい言われながら、頑張って目を開く。ちょっと触りますね。とまぶたを押し上げられる。わたしも別に子どもではないので、機器に取り付けられていた手摺のようなところをぐっと握って、額をくっつけ、なんとか目を開こうとする。風がやってくる。なんどかプシュプシュやられた。たぶん、わたしが動くからうまく撮れなかったんだろう。
「すみません、これ怖くて」との情けない声に、そうですよねーと柔らかく対応してくれるのをありがたがりながら、なんとか検査を終える。ほんとなにを調べているんだろう? これ。とあまりに気になったので検索してみたら、眼圧検査であることを知った。
名前を呼ばれて立ち上がり、医師の前の丸椅子に座る。この椅子がほんとうに嫌いなのだ。病院に来たときにしか座らない、丸くて、ローラーがついていて、パイプっぽい安物の作り。
結局、視界の不調の原因は分からなかった。医師は腕組みをしながら「分かりませんが」を枕詞にいくつかの診断を下した。いや、分からないんじゃないですか。と心のなかで何度か言い返した。まあいい。なんだか重篤なものが見つかったわけではない、というだけで……それだけでもういい。
「慰め程度」の目薬をもらった。ほんとうに医師自身が「慰め程度」とそう言った。結局ぜんぜん使っていない。未だに視界が横揺れすることがある。