青鹿

ぽーん。 石を飛ばす、飛んでゆく、その軽やかな曲線を見つめながら、宮部はとなりを歩く伊木の横顔を盗み見た。いつだって彼らは連れ立って歩いていたので、わざわざ今、伊木の表情を確認する必要なんてない。たいしたイベントもない七月の終わり、夏休みモ…

手記と手鏡、それから

始まりは一通の手紙だった、と記憶している。 シェヘラザードは、冷岩によって作られた机の上で、ペンを躍らせていた。彼は武人だったが、書の読み書きが珍しくも出来た。一冊一冊を繰り返し発露させる彼の、白皙の感情。ただただ歌うように熱にうかされるよ…

「魂」「なに?」 ストアは持っていた本を持ち上げて、キスの顔を見る。機嫌がいいのか、今日は青いドーランが顔中にまぶされている。「魂はどこへゆくと思う」「僕は忙しいので、そこのクマに話しかけていただけますか?」 キスはクマを持ち上げて、同じ質…

なめらかな曲線を描く書棚は、よくよく油のしみこんだ銘木イルゼナ材をまぶしい夕陽に光沢させていた。ところどころに掛けられている脚立は、細影をあしたか鶴のように伸ばしている。奥には巨大な窓でもあるのか、黄色の光が飛び込んでいた。ストアは目を細…

啓太くんがサイコロをぐしゃりと掴んだ。 じゃらじゃらと手のひらの中でしばらく転がした後、いっせいに宙へ放り出す。 ――賽は投げられた。 五つほどのサイコロが、好き好きに転がりながら、それぞれのタイミングでカタンと音を立てて停止する。面が揃ったと…

四幕第一章 - 1 -

一切の仔細を捨て置いて、分析士・キス・ディオールその人が音信を不通とし行方を完全に暗ましてから、既に三ヶ月が経とうとしていた。「本当にあの人は勝手だ」 思いがけず宙に放られたその言葉は、自分で思うよりも大きくなって響く。このままあの人にも聞…

「だれとでもどっぷり仲良くなる必要なんてありません」「君にはどっぷり愛する相手がもういるから、ということかな?」「いいえ。僕だけの話ではなくて、誰にもいつでもどこででも、誰とでも仲良くなる必要なんてないのです。そんなふうに思う」「そうか、…

愛してもらえるたびに、この愛はいつまで続くのだろうと思う。そんな乙女の心情にも似た自意識をかかえて、もう一年になる。 まいにちあなたが星を贈ってくださるのがありがたいのに、ログインするたびに安心するのに、なにか新しいものを出さなくてはと思い…

それは君が女だからだ、だから君は何かそういった幻想にすがりつきたいと思うのだ、とあなたは言うから、わたしは圧倒的な不理解をさびしがった。 理解してもらえないことほど悲しいことはなくて、そしてこれ以上にどうしようもないこともない。愛してもらえ…

わたしのことすき? って聞いたとき、あなたの答えは定められたひとつしかなくて、それ以外を答えたところでわたしは「はじまりの街」の村人のように結局おなじ質問を愚直に繰り返すだけ。ですので、答えは決まりきっている。ねぇ、わたしのことすき? 夢に…

大切に育てていた芋虫がサナギになり、深い眠りから覚めて羽化したとき、私は”こんなはずじゃなかった”と思った。 私が愛していたのはぶよぶよとだらしない肉つきをした芋虫のイモ子だった。斑点のある緑色の皮膚も、カフカの小説を思わせる億劫そうな体の動…

苦手なことがいくつかあって、たとえば「それって私のことでしょうか」と聞くこと。 発言の内容、前後の雰囲気、なんとなく私のことかもしれない、でもあんな暗喩的な言いかたで指摘したりする人かしら。どうしても言いづらくて、気づいて欲しくてああいうふ…

植物と少女

ナイメルトはある夜、ひとり海に来ていた。いや、正確には「ひとり」ではない。「ひとり」がなにを表すか、というのは、古くから議論される(特にナイメルトにとっては)難しい問題のひとつだ。精神的に「ひとり」だと思うから「ひとり」なのか。物理的に「…

小説のなかで使う聖書の言葉を引用しようと、wikisourceにアクセスしたら、よくよく知っている一文に遭遇した。 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、そ…

ある本を読んで、「こんなものを書いてもよかったんだ」と思うことがある。そんなふうに感じたとき、わたしは自分のなかに巨大な檻が隠されていたことを知る。あまりに自由でいたように思うのに、それでも縛られていた。いつでも縛られている。気づかないう…